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第3話

普段なら聞こえることの無い自分以外の生活音と、カーテンの隙間から入る光に意識が浮上する。薄く目を開くと片付けられたテーブルが目に入る。どうやらソファで朝まで眠っていたようだ。身体を起こすとあちこちの関節が悲鳴をあげる。 龍平さんは帰ったのだろうかとふと思ったが、キッチンからかすかに聞こえる物音にまだこの家に居ることを悟る。軋む関節を伸ばして脚を床に下ろす。 キッチンに続く引き戸を開けると、嗅ぎ慣れない香りがする。 「シャワー借りたぞ」 「その前に煙草吸ってもいいか普通聞きませんか」 「なんだよ、換気扇の下で吸ってやってんだろ」 そう当たり前のように返す龍平さんは濡れたままの髪に上は着ておらず首にタオルを引っかけているだけだった。ズボンを履いてくれているだけまだマシだろう。 「僕もシャワー浴びてくる」 「ああ」 シャワーを浴びながら昨日のことを思い返していた。どう考えても初対面の人間を家に入れて寝落ちして、起きたらその人はまだ家にいて勝手にシャワーを浴びてたなんて普通じゃない。だけど相手が龍平さんだからな、と最早諦めの境地だ。 シャワーから上がると龍平さんはもうリビングでコーヒーを飲んで居た。 「今日、仕事行けるか?」 「行きますよ。久しぶりに寝れたからちょっといつもより調子良いし」 「今日が調子良いからってまだ頑張れるとか思うんじゃねぇぞ。いいか、お前が今日やるのは会社のスケジュールから今までの証拠を集めるだけだ。それが終わったら早退でもしろ。どうせ辞めるんだからな」 「そんな簡単に…」 「簡単だろ。もうお前がクソ野郎どもの為に何も削る必要は無い。それだけだ」 そうかな、そうかもしれない。どうせ辞めるんだからもう誰かの為に、とか誰かのせいで、なんて考えなくてもいいか。 「あー…じゃあ午後から帰っちゃおうかな。天気良いし、外でランチでもしようっと」 「携帯、出せ」 「え?」 「連絡先交換しないと合流しにくいだろ。会社出たら連絡しろ」 「へ、今日も会うの?」 「当たり前だろ。計画は始まったばっかりだろうが」 いや、当たり前じゃないだろう。てっきり僕は昨日の龍平さんの気まぐれで一晩僕の愚痴に付き合って、流れで泊まったかもしれないがこれでさよならするものだと思って居た。「計画」だって僕に仕事を辞める決意をさせるための提案で、龍平さんが今後も計画実行に付き合う気があるなんて驚きだ。 「でも、龍平さん仕事は?」 「俺は自分で時間の都合が付けれるからな」 「…もしかして、ニート?」 「ちげぇわ、自分の食い扶持くらい稼いでる」 具体的な職業を言わないあたりなんだか怪しいが、龍平さんこのことに関していちいち気にしていたらおかしくなってしまう。再度携帯を出すよう促され、連絡先を交換する。初期設定のアイコンに龍平さんらしさを感じる。 龍平さんとはマンションの前で別れた。あくびをしながら「帰って寝直すわ」と言っていた彼はとても普通の会社員とは思えない。今度はちゃんと職業を聞こうと心に決め、僕は駅へ向かう。それにしてもとても眠そうだったが、てっきり彼のことだから僕がソファで寝ていたので勝手にベッドを使ったものだと思っていた。 そんなことを訥々と考えていたら会社の前に辿り着いていた。いつもだったらエレベーターに乗り込むあたりで手が微かに震え始めるのだが、今日はどうしたことか平気だった。多少の緊張感はあるものの、足元から力が抜けていくような感覚は無い。 「おはようございます」と係長に声をかけるも、いつも通りチラリとこちらに視線を寄越すだけだった。その瞬間ぞわり、と心臓が震えたような縮んだような不快な感覚に襲われた。気持ちの悪い不安感。大丈夫、大丈夫。僕は今日午後には帰るんだから。と口から小さく呼吸を繰り返す。 僕が今からやることはこの係長に一発ぶちかます為の証拠集めなんだから。そう心の中で何度も繰り返し、PCを起動する。 スケジュールアプリを開くと意外と記憶が蘇ってくるものだ。接待の相手先も控えていたらか、焼酎を飲まされて潰れた日、取引先の方と話していたのに「君はお酒作ってて」と水割りセットと共に端の席に移動させられた日など思いのほかスムーズに内容を控えられた。資料の締め日も残してあったので、作成した資料の名前を係長に書き換えられたのがどの資料だったかも思い出した。そうだ。本社で研修の日もあったが、僕は知らされておらず当日になって「君は残ってていいから」と一人会社に取り残されたこともあった。研修参加者は事前に本社に報告する必要があるので、意図的に当日まで僕に黙っていたのは明らかだ。 ぼろぼろと出てくる係長の嫌がらせにいっそ笑いが込み上げてきた。堪えつつもその内容を簡潔にまとめて僕の携帯アドレス宛に内容を転送しておく。この数ヶ月でこんなに作業が進んだ日はあっただろうか。 明日僕はここに出勤しないだろう。そう思ったらいろんなことがどうでも良くなってきた。昼までまだ少し時間はあるが、もうやりたいことは終わったし帰ってしまおうか、そう思ったタイミングで僕の携帯がメッセージの受信を知らせる。 メッセージアプリを開くと龍平さんからで「私物は持って帰れよ」と一言。彼はどこかで僕のことを見ているんだろうか、そんなことさえ思ってしまう。私物と言っても、僕は自宅にすら大して物を置かない人間だ。会社にある私物なんてお気に入りのペンとか印鑑とかその程度だ。それらを持って帰ったとて誰も気付かないだろうと、バッグに仕舞う。 PCをシャットダウンする前に、と僕のローカルディスクからチーム内で使っているプログラムの構文やマニュアルを削除した。これはPCに疎い係長に指示されて作ったプログラムの元だが、会社のプログラムではなくチーム用に僕が個人的に作成したものなので削除したとて問題無い。そもそもローカルに入れていたので係長も吉村さんも存在を知らない。ただこれでもし僕が作ったプログラムでエラーが起きようと修正や訂正をしようと思っても彼らには何もできないだろう。まぁ会社には僕よりもっとPCに詳しい人間なんて山ほど居るので、その人たちに聞けばすぐに解決してしまうだろうが、プライドの高い係長が他部署に頭を下げるとは思えない。 龍平さん、僕なりに復讐してやったよ。 そんな気持ちでPCを閉じると、荷物を持って係長の元へ向かう。 「すみません、体調が悪いので今日は早退させてください」 思いの外響いた僕の声は少し離れた隣のチームにも聞こえたことだろう。 「は?体調が悪いって君…」 何か係長が言っている気がするが、急にキーンと耳鳴りがし始めてよく聞こえない。 「耳鳴りと眩暈がするんです。すみません、失礼します」 そう言うと軽く頭を下げて事務所を出る。耳鳴りがひどくて声をかけられていたのかもよく分からないがもういいや。眩暈は嘘だけれど、このままここに居たら本当に倒れてしまいそうだった。 会社を出たら急に肺に酸素が入ってきて咳き込む。先ほどまで煩かった耳鳴りも治って周りの雑音が聞こえ始める。まだはあはあと整わない息のまま携帯電話を取り出し、龍平さんへ電話を掛ける。 『どこだ?』 もしもし、なんて挨拶しないところが龍平さんらしい。 「っは、はぁ、か、会社出たとこ」 『おい、どうした』 「っはー…いや、勢いで会社出てきちゃって。大丈夫です、落ち着きました」 『歩けるか、大丈夫そうなら駅に来い』 「うん!」 僕はここ数カ月で一番軽い足取りで駅へ向かった。 駅に着くと龍平さんは柱にもたれて立っていた。遠目でもわかる身長の高さとスタイルの良さ。朝と服が違っているので家に帰ると言っていたのは本当だったのだろう。近付くと僕に気付いた彼は片眉を上げて「よう」と言った。 「龍平さんって無駄にかっこいいですよね」 「無駄じゃねぇだろ。このナリだと女が釣れる」 「うわ最低」 「僻みか」 そんな軽口を言いながら並んで歩き出す。駅に来いと言ったからには電車に乗るのだろうと思って居たが、龍平さんは真っすぐ駅ビルへと入っていく。 「どこ行くんですか?」 「昼飯。食うんだろ?」 確かに外でランチをしたいと言っていたが、それは一人でゆっくりとどこかのカフェにでも行こうと思って居たのであって、龍平さんとファストフードを食べたいという意味ではない。しかし、僕に何を食べたいかも聞かずずんずんとハンバーガーチェーン店のレジに向かっていく龍平さんを止められそうもない。仕方がない、と一つため息を吐き後を着いて行く。 駅ビルの中とは言え、平日のランチ時にしては少し早い時間なので店内はさほど混んでおらず、ボックス席を確保した。ファストフードに誰かと一緒に来るのなんて久しぶりかもしれない。ランチは基本一人だし、友人と会う時は大抵夜の居酒屋だ。 「ちょっと、僕のポテト取らないで」 「俺のもう食ったもん」 「だからって人の食べないで下さいよ!最初からLサイズ頼めばいいじゃん!」 「お前が食うの遅ぇんだよ」 こんな学生みたいなやりとり友達ともしなかった。人のポテトに手を伸ばすような友人は居なかったし、もし食べられても内心不満に思いながら差し出していただろう。それが「僕」だった。 「ところで計画って何するんです?もう僕明日から出社しないつもりで会社出ちゃいましたけど」 「それでいい。そうだな、飯食ったら移動だ」 「え、どこに?」 「病院」 「…病院?なんの」 なんだか嫌な予感がして、急に心臓の動きが感じられるほどドクドクと音を立て始める。 「心療内科。最近はメンタルクリニックってとこの方が多いか」 「僕が…行くの?」 「そうだ。まさか眠れなくなったり過度に緊張する状態が普通とは思ってねぇよな?」 「…でも、もう仕事辞めるし。きっと元に戻ります」 「そんなに根が浅いもんじゃねぇだろ。それに」 龍平さんはハンバーガーの包み紙をくしゃりと丸めるとトレイにぽいと投げ置いた。 「お前、昨日死ぬつもりだっただろ」 なんで、とかそんな訳ないじゃないですか、とか取り繕う言葉を一瞬考えてみたものの、龍平さんの確信を持った口調にどう言っても無駄だろうと思い、開きかけた口を噤む。 「いいか。腹が痛かったら内科、ものもらいができたら眼科に行くだろ。それと何が違う?お前は昨日死にかけたも同然だ」 「でも、病院に行くほどですか?眠れなくなったり、緊張が続いたりなんて…社会人なんてそんなもんじゃないんですか」 「他の人間がどうした。痛みにどれだけ耐えられるかなんて個人差があんだよ。そしてお前は限界を超えかけたんだ」 龍平さんの言っていることも分かるが、どうしても心療内科というのはハードルが高く感じてしまう。怪我のように見た目が分かるわけでもなければ、ウイルスのように原因がはっきりしているものではない。結局精神的なものなんて、「気の持ちよう」とか「僕次第」なのではないかと思ってしまう。 「安心しろよ。俺も着いていってやるからさ」 「えっ、着いて行くって病院に?」 「そう」 「もう僕大人ですよ!付き添いが居るのなんて恥ずかしくないですか」 「誰に対して?誰もお前のことなんて気にしてねぇよ」 誰も僕のことなんて気にしていない。とても素っ気ないし、酷い言葉だろうに何故か今の僕にはスッと染み込んできた。ふとあたりを見回すとぼちぼちと埋まっている座席にはサラリーマンや学生、子連れの主婦など様々な人間が居たが、今の今までどんな人間が店内に居るのかなんて気付いてもいなかった。向こうからしたら僕だってそうだろう。意識しなければ同じ店内で食事していることすら知らない存在。今僕たちが病院だの死ぬ気だっただの少々物騒な会話をしていたことすら気付いていないんだろう。そうか、他人なんてそんなものなのか。そんな知りもしない他人の目を僕はいつだって気にしすぎて生きてきたのかもしれない。 「…ちゃんと、最後まで居てくれますか」 「ああ」 「途中で居なくなったら許さないから」 「分かってるっつーの」 そう言うと龍平さんは「近所の病院で今日空いてるところ探せ」と言った。 なんだよ、探すの手伝ってくれないのかよ。と思ったが、きっと探すのにどれだけ時間をかけて悩んでも、龍平さんはぶつぶつと文句を言いながら傍に居てくれるんだろう。 龍平さんと知り合ってまだ一日だが、彼に関していくつか分かったことがある。 彼はとても無神経で、そしてとても優しい。

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