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一 仏の鮎川

「マジでやるのか?」 「大丈夫だって。先輩もやったって言ってたし」  そう言って二階の端にある部屋の前でコソコソと話し込んでいるのは、今年『夕暮れ寮』に入寮したばかりの新入社員らだった。208号室と書かれた部屋の前で、ビニール袋を片手にソワソワと落ち着かない様子でキョロキョロと周囲を見まわしている。長い廊下の先にある階段では、先輩たちがニヤニヤ笑いながら様子を窺っていた。  青年は袋を覗き込み、「うへぇ」と顔を背ける。派手なパッケージに入った、卑猥な形のオモチャだった。 『夕暮れ寮』には何故か、五年ほど前から新入りに対して謎の通過儀礼が存在していた。つまり、最寄りの駅近くにあるアダルトショップで大人のオモチャを購入して、208号室のドアノブにひっかけて来る――という、実にくだらないお遊びである。  とはいえ、やっている本人にとっては恥ずかしいやら、緊張するやらで、それなりの盛り上がりを見せるし、やらせている先輩たちにとっては、良い話の種であり笑いのネタだ。「品性のかけらもない」と、『夕暮れ寮』を取り仕切る寮長の|藤宮進《ふじみや しん》が思っていても黙認しているのは、ある意味、この交流が伝統になっているからである――208号室の人間以外には。 「よし、やるぞ」 「ああ」  盗み見している先輩たちが、「さっさとやれ」とせっついている。置いてくるだけだ。怖いことなど何もないはずだと、ドアノブに袋をひっかける。  と、同時に、ドアノブがガチャリと動いた。 「ひっ!」  青年たちは中の住人が出てきたことに、驚いて反射的にその場を駆け出す。ドアの隙間から、のそりと人影が覗いた。 「すっ、すみませんでした!!!」  遠ざかる声に、その人物は首を捻ってドアノブを見た。 「ああ――新人くんか」  長い前髪のせいで片目は殆ど隠れている。陰鬱な雰囲気の痩せた男。それが、|鮎川寛二《あゆかわ かんじ》である。ハァとため息を吐き、袋を手に取り中身を見る。 「これ同じ商品5個目だけど。買いやすいのかな……」  そう言いながら箱を取り出し、部屋の中に積まれていた一角にひょいと積み上げる。その一角は、異様だった。バイブにローター、アナルパールにアナルプラグ。変わり種では手錠やベルトなんてものもある。  まるでアダルトショップのようになっている原因は、例の通過儀礼である。  いつの間にか夕暮れ寮の風習になってしまっている「208号室にアダルトグッズを置いてくる」お遊びは、もとはと言えば「お前なんでこんなもん持ってるんだよw」と同僚をネタにし、ネタにされた奴が怒って他の部屋に投げ込むという、バトンのようなものだったのだ。だがそれを、鮎川が面倒だという理由で止めたことが原因で、不幸な連鎖が始まった。  同じようなことが何度もあって、その度に鮎川が止めていると、いつしか「鮎川のところに投げれば良い」というようになり、そのうち「鮎川にアダルトグッズをこっそり置いてくる」のが伝統のようになってしまったのである。  どこかで止めれば良かったのだろうが、生来の性格ゆえに言い出さずにいたところ、処分するにも困るほどの量が部屋に積まれることになってしまったのだ。  現状、部屋が狭くなってしまっていること以外は、特に問題はない。鮎川はため息を吐きながらも、「仕方がないな」と思っただけだった。  ◆   ◆   ◆  ガシャーン! けたたましい音を立てて、メラミン製の皿が地面に転がった。その音に、食堂にいた人たちが陰鬱な雰囲気の男に注目する。鬱陶しい前髪の、長身で痩せた男、鮎川寛二である。彼はみそ汁で濡れたシャツが肌に張り付く不快さに顔をしかめ、目の前で青ざめた顔をしている青年をチラリと見やった。 「すっ、すみませんっ!」 「あ――……」  鮎川のトレイに乗っていたご飯やみそ汁、おかずは、すべてひっくり返っている。運ぼうとしたところにこの青年がぶつかってしまい、盛大にぶちまけたせいだ。しかもすべて鮎川のほうにかかっている。 「まあ、大丈夫だよ。そんな熱かったわけじゃないし」 「マジですみませんでした! 弁償しますから!」 「ああ、良いよ。気にしないで」  本当ならシャツと濡れたズボンのクリーニング代くらい貰っても良いし、ダメになった夕飯も買って返してもらうのが筋だろう。だが、鮎川は苦笑するだけで、文句の一つも言わなかった。その様子に、誰かが「さすが、仏の鮎川」と呟いた。 (ダサっ)  食堂のカレーを口に運んでいた|岩崎崇弥《いわさき しゅうや》は、その様子を横目で見ながらフンと鼻を鳴らした。自分が悪いわけでもないのに食器を片付けて雑巾で濡れた床を拭いている鮎川に、呆れのような憐みのような、苛立ちの混ざった感情が胸に湧く。自分だったら、「どこ見てやがる」と胸倉を掴み、「舐めてんじゃねえぞ」と一発殴っているところだ。 (なにが『仏の鮎川』だよ。やり返せねえひ弱が)  岩崎は、今年『夕日コーポレーション』に入社した新入社員である。岩崎にとって先輩である鮎川をわざわざ悪く言うことはしないが、だからと言ってあんな軟弱な男を『先輩』と呼ぶのも出来ない。尊敬できない人物を、先輩扱いは出来ないのだ。 (ヘラヘラ笑って、何が楽しいんだか……)  ああいう人間を見ると、岩崎はイライラする。彼らなりの処世術だとは思うのだが、岩崎とは根本的に人種が違うのだ。相容れない存在は、受け入れ難いものだ。 「あー、ここ良い?」  ふと、前の席にトレイを持った青年が立つ。確か、同じく同期入社の|栗原風馬《くりはらふうま》という男だと思い出す。同期入社の寮組は、岩崎を入れて六人だ。他の五人はよく一緒にいるようだが、岩崎は彼らに比べやや浮いている。栗原も今日はたまたま一人だったようだ。新人研修が終わって配属が正式に決定すれば、よりバラバラになるのだろうなと、岩崎は思った。 「ああ、良いよ」  勝手に座れば良いのに。そう思うが、口には出さない。もっとも、顔には出ていたが。 「岩崎は……その、それ……そのままで大丈夫なの? 何か言われない?」 「あ?」  スプーンを口に運びながら、思わずそう返答する。栗原がビクリと肩を揺らした。威嚇するつもりがなかったので、内心申し訳なく思う。  栗原が「それ」と言ったのは、恐らくは髪のことだろう。岩崎の髪はピンク色で、耳にも幾つもピアスが開いている。 「別に、何も言われねーし。就活の時もこうだったから、平気じゃねえの?」 「そ、そうなんだ……。俺は就活で黒にしたからさ……茶色にしちゃおうかな」 「ああ、良いんじゃねえ?」  寮内を見回せば、赤い髪の男や金髪なんてのもいる。夕日コーポレーションはかなり自由な社風のようだ。ニ三言葉を交わして緊張が解れたのか、栗原は他愛のないことを話だしす。人懐こい性格のようだ。 「それで、高橋先輩に言われてさ、鮎川先輩にイタズラを……」 「何したんだ?」  気恥ずかしそうにする栗原に、岩崎は首を傾げた。カレーはすでに食べ終えていたが、なんとなく席を立つのは止めておいた。栗原が小声で周囲の視線を確認するようにキョロキョロする。 「駅の近くに、アレ系の店があるじゃん」 「アレ系?」 「しっ! 声が大きい!」 (アレ系? アレ系ってなんだ)  訝しむ岩崎に、栗原がもどかしそうにする。だが、解らないものは解らない。岩崎はこの辺りが地元ではあるが、その分、駅をあまり利用しない。駅周辺の情報には疎かった。 (駅近くになにかあったっけ?)  首を傾げる岩崎に、栗原が顔を赤くして答える。 「アレ、だよ。その……大人の、オモチャ……」 「はぁ?」  思わず呆れて声を出した岩崎に、栗原が「しーっ!」と唇に指を当てる。確かに、駅の近くにアダルトショップがあった。恥ずかしがる栗原にも呆れるし、内容にも呆れてしまった。 「くだらねえ」 「まあ、そう言わないでよ。こっちはドキドキだったんだからさ」 「良く腹が立たねえな、あの――」 (なんだっけ? 菩薩? 違うな) 「仏の鮎川、ね。鮎川先輩が怒らないから良かったようなもんで……」 「は。怒られるのが嫌なら、そんな真似すんなよな」 「岩崎も言われるんじゃないの?」  同期六人のうち、『通過儀礼』とやらをやったのは三人だったらしい。岩崎にはまだ、声が掛かっていない。 「言えるもんなら、言って欲しいもんだけどな。まあ、俺はやらねえけど」 「確かに。言い難そう」  そう言って愛想笑いを浮かべる栗原に、岩崎はフンと鼻を鳴らした。

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