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蛇足に過ぎないエピソード
校庭の片隅で煙草を吹かす。校舎内は禁煙なので、したがって煙草を吸うときは校舎から離れたこの場所で吸うことが多かった。用具入れと花壇があるこの場所は、隣にある施設の敷地と隣接している。その敷地から聞こえてくるピアノの音に耳を傾けながら、ボンヤリと窓の方を眺めていた。どの部屋から聞こえてくるのか、既にだいたい見当がついている。このところ毎日、練習する音が聞こえて来ていた。
(多分、五階だよな)
住人がどんな人物なのか、見たことはない。ただ、なんとなく耳から離れず、こうしてタバコ休憩のたびに来てしまう。
「おうおう、堂々と覗きかいな、センセー」
「うわっ!」
背中から声を掛けられ、男――三島優は驚いて煙草を落としそうになった。振り返ると、黒いジャージを着た目つきの悪い男が、ニヤニヤとこちらを見ていた。
「く、久保田先生っ……」
「なんや、確かなんとかっちゅう会社の寮やろ? そんなジロジロ観てたら、通報されてまうで」
「の、覗きじゃありません。誤解です」
こほん、と咳ばらいをするふりをして、三島は慌てて否定する。久保田月郎という国語教師は、この春からここ夕日高校の教師になった新任の教師だ。三島とは同僚ということになるが、残念ながら三島は音楽の非常勤講師であるため、立場はずっと弱い。
「それにここ、男子寮ですから」
夕日高校に隣接するこの寮は、地元の企業である夕日コーポレーションの運営する独身男子寮である。だから久保田が想像するようなやましいことは、決してないのだ。
「男子寮だからって、覗きはまずいやろ。こういうご時世やし」
「……まあ、そうですけど」
そんなやり取りをしているうちに、ピアノの音がやむ。思わず、五階の窓を見た。
「あ」
ちょうど、住人らしい男が窓を閉じようと顔を出した。目が合いそうになって、とっさに目を逸らす。
「なんや。青春か?」
「ち、違いますよっ」
「俺はそういうの偏見ないで。俺の彼氏も警察官で……」
「そういうのじゃないですから……って、ええっ!?」
驚いて、思わず大声を上げてしまう。聞こえただろうか。そう思い、窓を見上げる。窓には既に、人は居なかった。
おわり
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