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第1話 ローズマリー
あと二年、もう少しすればここから脱出できる。
まだ物心がつかないうちに両親を亡くした葛西リョウは、祖母と二人で貧しくも優しさに満ちた日々を送っていた。それも祖母の死でリョウは身寄りがなくなり、とある養護施設に引き取られた。
ローズマリーという名の施設は、見たこともない作りの屋敷だった。屋根の開いた木造家屋で祖母に育てられてきたリョウにとって、森の中に佇む赤い屋根の洋館は物珍しく、華やかな暮らしを期待させるものだった。
それも入所して早々、悪い意味で打ち砕かれる。まずは葛西という姓を失い、下の名のリョウだけが残った。親と祖母を失った子供心から、廊下で泣き喚いても大人達には放置され、少しでも勉強を間違えると先生からの酷い折檻が待っていた。
施設のグランドマザーこと腰の曲がった加奈子先生に棒で叩かれた両手は赤く腫れ、冬の早朝から屋敷の掃除を任され、風邪を引いても誰も看病をしてくれなかった。立派な屋根があって、勉強も出来る。温かい食事が出てくるだけマシだと己に言い聞かす。他の子が悪さをしても、自分と同じ目に遭っていないことの理不尽さを嘆く。それでも自分が不出来だから、と何度も何度も泣くのをこらえた。
ローズマリーにはリョウ以外に十人の子供が住んでいる。年や性別、性格もバラバラだ。毎月、入れ替わりをするから、名前と顔を覚えている時間がない。それでも受け入れている人数は十人と決まっているようで、九人に減ったとしても、十一人には増えたりしない。出て行った子は共通して、見慣れない大人と面談をしていた。その様子から、きっと彼らは親が出来て、外の世界に旅立ったのだろう。誰一人、施設に戻ってきたり顔を出したりする子がいないから、リョウは都合の良い推測しか出来ないでいる。
ある季節、あれは秋だったろうか。談話室の窓の向こうでは、木の葉が赤く色づいていた。十歳に成長したリョウは、ようやく物心がつくようになり、自分の面倒を見てくれたお姉さんの二十歳の誕生日を祝った。重たい雲の切れ目から鋭い光が差し込み、パーティーハットをかぶって笑い合う子供達の細い身体が発光する。この時、神様が祝福してくれている気がした。ケーキを食べたり、甘いジュースを飲んだり、皆はお姉さんに手紙や大事なステッカーをプレゼントしていた。リョウも手紙を渡したら、その場で読んでくれて嬉しかった思い出がある。
その翌日、お姉さんはローズマリーを去った。突然の別れに、リョウは数年ぶりに泣き喚いた。当然、加奈子先生の定規がリョウの手を打った。
それもリョウが十一歳になり、施設のルールを把握し、加奈子先生よりも背を追い越した頃から、折檻がピタリと止まった。その代わり、新しく入ってきた男の子が次の標的となった。
「よろしくおねがいします」
談話室で集まった皆に、ユウトはすねたような口調で自己紹介する。彼は視線は床におとしたまま、決して皆を見なかった。リョウと同い年なのにひょろりと背が高く、肉のない身体は太い骨が突き出て、落ちくぼんだ眼は何かを睨み付け、ぼさぼさの長い髪は金髪に染まり、顔や腕には所々引っかき傷がみえた。
ユウトは言い渡された掃除を黙々とこなし、泣き言も言わない。それでもユウトは身体が弱いのか、何度も風邪を引いた。同じ年の子とは同部屋になるので、必然的にユウトとも部屋が一緒だった。リョウは頼まれもしないのに彼の看病をし、ユウトが任されている掃除を自分一人で終わらせていた。自分がされて辛かったことを、他の子に負わせたくなかったからだ。他の子からは自分の行いを「良い子ぶってる」と馬鹿にされる。だけれど、この良心だけは失わないようにと踏ん張った。
ローズマリーでは、中途半端な善意を良しとしていないし、最後まで責任を取れない優しさなんて相手を潰してしまうだけだと教わった。それでもリョウは、身の内で熱を持つ善意を捨てたくなかった。たとえそれが偽善だったとしてもだ。それでリョウ自身が救われるのだ、ここを出るまで何が何でも信念を曲げたくなかった。両親と祖母との繋がりである葛西リョウという名を奪われたのだ、それぐらい許して欲しかった。
寝込んでいたユウトが、いつもの生活に戻った。徐々にだが体調を戻している。
「ユウトくん、まだ喉がガラガラだよ、ほら、この飴を、」
病み上がりのユウトに飴を手渡した。食堂の仕事を手伝うと、お菓子を配布される。リョウは直ぐに食べたい欲を抑え、いくつかの菓子を大事に取っていた。この苺味の飴はどうしても辛くなった時に食べようと、お守りみたいにジャケットのポケットに入れていたものだ。多少は形が崩れているが、頬が蕩けるほどに甘いに決まっている。
「余計なことするんじゃねえよ」
ユウトがリョウの手を払う。飴が床に転がる。ユウトは心を開いてくれない。
「……ごめん」
飴を拾い上げ、そのままポケットにしまわずに手のひらで転がす。
「この偽善者」
リョウの気遣いを、ユウトがはねのける。
それでもリョウは懲りずに、いつも一人でいるユウトの心配をした。どうしてこうもユウトに心を傾けるのか、自分でも分からない。リョウは施設で仲の良い子が少ないし、いつまでたっても外の世界に旅立てないでいる。そんなリョウにとってユウトという少年は、自分と同じ悲しみを見ていると感じた。
ユウトはかなりローズマリーでの暮らしに慣れたのだろう、彼から荒れた印象がきれいに洗い流されていた。ユウトの肌は案外白く、顔の引っかき傷は消えて、今やきめ細かい肌にはニキビ一つない。
毎朝、リョウは同部屋のユウトの髪にくしを通していた。ユウトは放っておくと髪がボサボサな状態でも気にしないでいる。そんなユウトの姿を見ていると、リョウは自分の幼い頃に祖母から髪をとかされたことを思い出す。そうなると、雑に服を着て髪を邪魔そうにかき上げたユウトを捕まえて、彼の髪にくしを通すのが日課となった。
金髪の髪が肩まで伸びている。どうやらこの色は地毛のようだ。
「伸びたね、そろそろ切ろうか」
と問うたら、
「このまま」
そう言うものだから、見よう見まねで毛先だけ整えた。
「あまりあいつに構うなよ」
ユウトが部屋を先に出ていったら、同部屋のコウスケが注意してくる。コウスケは下着姿のまま、昨夜脱ぎ散らかした服を洗濯カゴに入れて、新しい服を着ていく。精悍な顔立ちで物分かりのよい彼は、施設で人気者だ。コウスケとは古い付き合いで、リョウが入所するより前から彼はここにいる古参組だ。ローズマリーの劣悪な環境や非人道的な扱いも散々見てきただろう。早く出て行きたいだろうに、彼はいくつかの面談を断ったりしている。リョウは彼の行動に疑問視していた。
「そうそう、リョウちゃんはいいように使われているだけだからね、あまり褒められた行為じゃないよ」
続いてシズカも口うるさく言ってきた。シズカは朝から身支度を完璧に調えて、黒栁先生のように仕切ろうとする。リョウをちゃん付けする呼び名はどうかと思うが、ふと見せる優しさがリョウには好ましく映った。
ローズマリーでは二十歳を迎えたら、出て行くのが慣例となっているようだ。二十歳まで引き取られずにいた子は、誕生日を迎えた翌日に施設を去って行く。何度か別れを経験し、十人という定員を合わせるように新しい子が入ってくる。リョウは自分もいつか外の世界に出て行かないといけないと焦り始めた。随分とこの施設に慣れていることに少しだけ不安を覚える。
家族が欲しかった。幼い頃に失った両親の絶対的な存在、皮膚の厚い祖母の手の温かみ、無償の愛、それらが当然のように享受される家庭を持ちたかった。ローズマリーで二十歳を迎えて外の世界に旅立つのもいい。しかし違う。それだと自分は選ばれなかった子供になってしまう。それからのリョウは、どうやって二十歳を迎える前に養子縁組みで引き取られるかを画策するようになった。良い子でいれば誰かが見てくれるはずだ。きっとそうだ。
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