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第1話

 恋したひとがいた。  ひとつ上の先輩。整った顔立ちで、射貫くような強い瞳をしていて、薄く笑う冷たい表情に見惚れた。  彼はみんなが避けて通るような不良だ。人を殴るし、煙草だって吸う。先生だって強く出られないような悪い人だった。  それでも関係なく、僕は彼に惹かれていた。酷い仕打ちを受けてもいいから、彼に近づきたかった。でも臆病な僕にはそんなことできるはずもなかった。 「あ? 先客いるじゃん」  それは本当に偶然だった。友達がいない僕がいつもひとり昼休みを過ごす場所に、先輩が来たのだ。  二人きりならなにか言えたかもしれない。でも彼は普段通り仲間を引き連れていて、彼は一言も喋りすらしなかった。ただ、僕と目が合った。 「痛い目見たくなきゃとっとと消えな」  下卑た笑いを向けられても、僕はその場を動けなかった。先輩から目が離せなかった。じっと見下ろす冷たい視線が僕を縫いつけてしまったのだ。 「無視かよ一年ボウズ」 「どけっつってんだよ!」  棒立ちになっていた僕は、先輩ではない拳に殴り飛ばされた。尻もちをついた僕を仲間が嘲笑った。足が震えて立ち上がれもしない。 「今日のサンドバッグはこいつか?」  胸ぐらを掴まれてシャツのボタンがちぎれる。一言も声が出せないまま、僕はもう一度殴られた。  惨めに倒れる僕を、先輩が黙って眺めていた。撫で回すような目つきだと思った。彼はじっくりと僕を値踏みしている。薄い唇が徐々に弧を描いていくのが見えた。 「どけ」  仲間を追いやって、先輩が僕に近づいてくれた。目の前に先輩の足がある。煙草の匂いがした。 「俺に用があるのかい、一年くん」  風のように軽やかなのに、深くて落ち着いた声だと思った。僕を馬鹿にしている風でも、嫌っている風でもなさそうな声だ。  焦がれていた先輩が、ずっと僕だけを見ている。殴られた頬がじんじんと痛んだけど、僕は力を振り絞って先輩のもとへにじり寄った。 「うーわ、マジかよ」  先輩の靴に口づけた僕に、仲間たちは引いたようだった。でも僕は幸せを感じていた。 「ハハ」  先輩の、軽くて乾いた笑い声がした。わざわざ膝を折って、僕の上体を引き上げてくれる。睫毛が長い、涼しげな目が、僕のすぐ目の前にあった。 「そうまでするなら、飼ってやろうか」  僕は目をみはって、失礼なくらい先輩を凝視した。今、彼は、僕を飼うと言ってくれたんだ。心臓が高鳴った。 「新しいパシリか」  仲間の一人がそう言うと、先輩は僕の体を投げ捨てて頭をぎゅっと踏んだ。 「俺の犬だ。手ぇ出すなよ」  僕にかけたより酷く冷たい声だった。仲間の血の気が失せるのがわかった。  僕は恋したひとの、飼い犬になれた。      街の外れに、建設途中で放棄されたマンションがある。何年も前に忘れられたその場所を先輩たちは溜まり場にしていた。  僕は明らかに場違いだった。仲間たちはみんな腕っ節の強い人たちだし、先輩だって背が高くて喧嘩慣れしている。ひょろくてちっぽけな僕は浮いていた。  先輩は、仲間が屯するのとは別の部屋に僕を連れていった。がらんどうの建物は音が響いて、あちこちから笑われているようにみんなの笑い声が降りかかった。  震えて後ろを歩く僕に、彼はなにも話しかけなかった。部屋にぽつんと置いてあるパイプ椅子に腰かけて、煙草に火をつけた。向かい合った先輩はやっぱり美しく感じた。  とんとん、と先輩が足先で床を叩いた。彼はなにも言わなかったけど、僕には何となくその命令が理解できた気がした。  おそるおそる先輩の前に座る。僕が顔を上げる前から先輩は僕を見つめていた。その瞳と目が合うと、僕は息すらままならなくなってしまう。  すらりとした指が、僕の顎を掴んで引き寄せた。バランスを崩して四つん這いになった僕は正しく犬だ。先輩がつい、と僕の唇を撫でて、口を開かせた。 「舌」  穏やかにも思える声が短く命じた。そうっと舌を見せる。先輩は目を細めて煙草を咥えた。すう、と吸われた筒の先がきらきらと赤く燃えた。  形のいい唇から煙が吐き出される。コンクリートに灰を落として、先輩は煙草の先端を、僕の舌に押しつけた。 「ッあ、ぇ」  じゅ、と舌が焼ける。葉の苦味が伝わってくる。とても痛かったけど、僕は先輩に逆らうことが嫌で、涙目になりながら必死に耐えた。 「は……、っ」  僕の様子を眺めて、先輩はいつもみたいな冷たい笑みを浮かべた。煙草を捨てて踏み潰し、僕の顔を解放する。舌先がびりびりと痛んでいて、僕はくたりとその場に座り込んだ。  先輩が喉の奥で笑うのが聞こえた。痛みに息が荒いまま見上げると、彼の手の中で包装紙が音を立てた。 「ん」  先輩が差し出したのは飴玉だった。淡い黄色をしている。戸惑って見つめる僕の口に、先輩はひょいと飴玉を放りこんだ。ほんのりと甘いレモンの味がして、火傷にしみた。  先輩が手招くので、僕はなんだかわからないままパイプ椅子の横に座り直した。彼は新しい煙草に火をつけて脚を組むと、横の僕を引き寄せて頭を撫でてくれた。  それからしばらく、僕はそのままだった。ぼうっと座っている僕を、携帯を眺める先輩が時折撫でる。どちらもなにも喋らず、微かに聞こえる話し声を聴いていた。  飴玉が溶けた頃、僕は家に帰された。

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