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第2話

 次の日の朝、登校する僕はまだ夢を見ている心地だった。恋した先輩と目が合っただけでも舞い上がるようだというのに、僕は彼の飼い犬になって、頭まで撫でてもらえたのだ。  本当に、夢でもおかしくない。でも、舌の火傷と二度殴られた頬の痛みが、僕に昨日の出来事は現実だったと教えていた。  今朝の校門はなんだかピリピリしているようだった。生徒は門を通った途端に身を固くして、こそこそと端にそれていく。挨拶に立つ先生も今日はいないようだった。  僕は同じように門の前まで来て、ピリピリしている意味を理解した。  校門と生徒玄関の間にある花壇に、先輩が腰かけていた。煙草は吸っていなかったけど、ライターの蓋を開いたり閉じたりして暇を潰していた。  パチン、と最後に蓋を閉じて、先輩は僕に気がついた。微笑んで立ち上がった彼に、僕のあとから来た生徒たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。  僕は相変わらず動けないでいた。先輩が長い脚を踏み出すのを黙って見つめていた。彼が僕のすぐそばまで来ても、僕はただ立ち竦んでいた。  先輩の指がくすぐるように僕の頬のガーゼを撫でる。そのまま後ろに腕を回して、僕は彼の片腕に抱かれた。周囲が息を呑むのが聞こえた。 「放課後、裏門な」  耳元で僕を支配する声がした。何度も頷くと、先輩は僕の肩をぽんぽんと叩いて去っていった。      その日は誰も僕に近づかなかった。たまに僕をいじめていたクラスメイトも、全く絡んでこなかった。たぶん、これからもそうだ。僕は先輩のものだと、学校中が認識しただろうから。目立つ傷をこさえて登校してきた根暗な生徒が、校内一の不良に抱き寄せられたのだ。ああ、あいつは終わりだなと、誰もが思うだろう。  でも実際は違うのだ。僕はあのひとの飼い犬なんだ。周りは僕を憐れんだり敬遠したりするけど、僕の心は幸せに満ちていた。  ふわふわとした心のまま放課後を迎えて、僕は言われた通りに裏門へ行った。 「マジで来たよ」 「さすがハナからぶっ飛んでる」  裏門には不良仲間と、女子を引き連れた先輩が待っていた。手がなんでもないように女子の胸を揉んでいて、僕は目のやり場に困って俯いた。 「飼い犬ってコレ~? しょぼ」  けらけらと女子が笑う。先輩は彼女をどうするのだろうか。今日は彼女を撫でて過ごすのだろうか。 「いたっ!」  女子の悲鳴に視線を上げると、先輩が彼女を突き飛ばしたところだった。 「ちょっとぉひどい」 「萎えた。帰れ」 「は……これから楽しもって言ったじゃん」 「廃墟でコイツらにマワされてもいいなら連れてくけど?」  先輩の笑顔に温度はなかった。女子は気分が悪そうに仲間を見ると、悪態をついてどこかへ行ってしまった。  先輩が黙って歩き出したので、僕は仲間に混じって後をついていった。先輩に睨まれたからか、誰も僕に乱暴しようとはしなかった。      今日も先輩は仲間と別の部屋に行った。たぶん、普段からそうなんだろう。もしかして一人が好きなのかもしれない。  そう思うと、僕が隣にいるのが申し訳なくなってくる。でも先輩が僕を撫でる手つきは優しくて、許されている気持ちになった。いつも誰かを傷つけているのと同じ手が僕を撫でているのだと考えると胸がきゅう、とした。  ひんやりした指先が、僕の髪を梳いたり、耳たぶを挟んだりしてくれる。それが嬉しくて足の痺れも忘れられた。  どれだけそうしていたか、不意に先輩は僕の顎を掬って目を合わせた。冷ややかで支配力のある瞳がじっと見下ろした。 「ピアス、付けるか」  僕に聞いているのではなかった。思いついて、口にしたのと同時に決定されている。僕は先輩のものだから、僕自身の意思は関係ないのだ。 「でもお前、不良じゃないからな」  に、と口角が上がる。彼が言う通り僕はただの根暗な生徒だ。ピアスなんて付けたら即指導だろう。たくさんのアクセサリーを付けて平気でいられるのは先輩くらいだ。  先輩は背もたれから身を起こすと、僕と向き合った。持っていた煙草を咥えて、両手を僕の首に伸ばす。存外丁寧に僕のネクタイが解かれた。  ブレザーを脱がせて、シャツのボタンを上からひとつずつ外していく。スラックスに入っていた部分も引き抜いて、僕の上半身が外気に触れた。  先輩はつ、と僕の肌をなぞって、ゆっくり立ち上がった。そのままドキドキしている僕を残して仲間の部屋へ行ってしまう。コンクリートの薄暗い部屋は少し寒い。 「酒ある?」 「何本か残ってますけど」 「あー、これでいいや」  会話のあと、先輩が戻ってきた。手に持っているのはカップサイズのお酒のようだった。僕には馴染みがなくてよくわからない。  先輩は僕を放置して、なにかの支度を始めた。鞄からは先輩が耳に付けているようなアクセサリーがいくつも出てくる。床に胡座をかいた彼はティッシュを折りたたんでお酒に浸した。 「っ」  僕の胸にひたりとティッシュが押し付けられる。彼は寒さに浮き上がった突起を優しく拭くと細長い針を取り出した。何が起きるかわからない僕に微笑んで、その針も拭いた。 「動くなよ。怪我するから」  先輩に言われて、僕は辛うじて頷いた。針を持った先輩が僕の胸に触れる。鋭利な針先が突起に狙いを定めた。 「いッ……!」  左胸に激痛が走った。ぶつり、と突起を貫いた針に、先輩がなにか細工をしている。痛みにもがきたいのを必死に我慢して拳を握った。僕は痛みに強くないから、堪えきれず涙が流れた。 「ん、できた」  おそるおそる先輩の手元を見ると、僕の左胸にピアスが付いていた。刺された痛みが無くならずじくじくと疼いている。 「しばらく触んなよ」  先輩が僕の涙をぬぐいながら言った。僕は色んな感情が綯い交ぜになって、何度も頷くことしか出来なかった。  先輩に元通り制服を整えられ、僕は彼が煙草を三本灰にする間じっと撫でられていた。

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