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第4話

 先輩がまた学校に来なくなった。停学になったらしいと誰かが噂した。  僕は悩んでいた。もう廃マンションへの道のりは覚えているから、一人でも向かえる。でも先輩に誘われていないのに行ってもいいのかと悩んでいた。そもそも行っても先輩がいるかどうかわからない。仲間もこの期間は別行動をしているらしかった。 「最近平和でいいな」  ぼうっと外を眺める僕に声がかかった。気のせいかとも思ったけど、彼は間違いなく僕を見ていた。放課後の教室には他に誰もいない。 「おまえもひと息つけるだろ?」  クラスでも明るくて正義感の強い、尾崎くんだ。前にいじめられている僕を助けてくれたことがある。それからもたまに僕を気遣ってくれたりしていた。  尾崎くんは僕に近寄ってくると、にっこり笑いかけた。 「心配してたんだ。辛い思いしてるんじゃないかって。なにか酷いことされてないか?」 「う、ううん、なにも。大丈夫だよ」 「でも相手はあの瀬川だろ。困ってたら遠慮しないで頼ってくれよ」  尾崎くんは先輩のことを呼び捨てにする。怖がらずに先輩のことを最低な奴だって言ったりする。明らかに先輩のことを嫌っていて、僕は少し尾崎くんが苦手だ。 「本当に、大丈夫。先輩は……優しい、から」  僕の言葉は信用されていないようだ。尾崎くんはムッとした顔になって、いきなり僕の両手を掴んで持ち上げた。 「嘘までつかなきゃならない隠し事があるのか? まさか瀬川にやばいことさせられてるんじゃないだろうな」 「え、違う、よ。嘘なんかじゃない」 「あいつが優しいなんて信じるほうが馬鹿だろ。オレおまえが心配なんだよ、このままじゃあっちの世界から抜け出せなくなるって」  僕は尾崎くんの剣幕にたじろいだ。どうして急に僕を気にかけてくれるようになったのだろう。そんなに親身になってくれる理由がわからない。 「なんで、僕なんかを」 「……瀬川に連れてかれるおまえを見るたびに苦しくなるんだ。どんな仕打ちを受けるんだろうって気が気じゃない」  尾崎くんの目は熱っぽかった。 「オレ、おまえが好きなんだ。だからなんとか助けてやりたいんだよ」 「え……」  僕は言葉の意味を理解しきれなくて尾崎くんを見つめた。手を握る力が強い。尾崎くんが全然知らない人に見えた。 「オレが救ってやるって約束する。だからもう瀬川なんかに付き合うのはやめよう。オレがおまえを解放してやるから」  尾崎くんに抱きつかれて、僕は自分の血の気が引くのを感じた。 「は、はなして」 「オレはあんな奴の報復なんかビビったりしない。だからオレのこと……」  迫ってくる尾崎くんが怖くて、僕は慌てて逃げようとした。でも僕の力はちっぽけだから、抜け出せず彼に抱きしめられてしまった。 「目を覚ませ。おまえはいいように遊ばれてるだけなんだよ」 「ちがう、やめて、離して……っ」  僕を捕らえる大きな手が、偶然ピアスに触れた。思わず肩が跳ねた僕を尾崎くんは見逃さなかった。 「おい、なんだこれ……」 「っいや、あ」  シャツの上から胸をまさぐられる。嫌なのに、擦れるたび体が反応してしまう。 「やめ、て……っ」 「おまえこれ、もしかして」 「やぁっ!」  尾崎くんにピアスを摘まれて、僕は悲鳴を上げた。先輩以外に触られたのがショックだった。  僕の声に怯んだ尾崎くんが一瞬腕を緩めて、僕はその隙に無我夢中で教室から逃げ出した。      必死に走ってたどり着いた廃マンションには誰もいなかった。ふらふらとソファの部屋まで行って、崩れるように座り込んだ。  先輩以外に触られたり抱きしめられたりするのがこんなに怖いとは思わなかった。先輩以外に触られても快感を得てしまう自分が最低だと思った。  薄暗い、寒い部屋で僕は泣いた。体の震えが止まらない。もう学校に行きたくないとさえ思った。  ソファにすがりついて泣いていると、すぐ近くで物音が聞こえた。気がつけば外はもう暗くて、マンションはおどろおどろしい雰囲気を出していた。  人影が戸のない入口に立って、怯える僕の前でライターの火をつけた。 「……せん、ぱい」  小さな明かりに照らされる先輩の顔は、なんだか怒っているように見えた。やっぱり勝手に来るのは良くなかったらしい。  先輩は部屋に入ってきて、僕の傍にしゃがんだ。ライターの火が消えて、先輩を見失った。 「なにやってんの」  声とともに、冷たい手が探るように僕の頬に触れた。 「ごめ、なさ、勝手に」 「泣いてたの?」  親指が僕の目元を擦った。その優しい手つきにまた泣きそうになって、声をつまらせながら頷いた。 「いっつも泣いてんねお前」  軽やかに先輩が言った。そのまま僕の腕を掴んで、一緒に立ち上がる。僕にはなにも見えなかったけど、先輩はどこにも突っかからずマンションの外へ出た。街灯のおかげでようやく先輩の姿が見えた。繋いだ手が優しかった。 「チクってくる奴がさ、いるんだよ」  先輩の言葉は、僕の事情を知っていることを表していた。僕はいたたまれたくなって俯いた。先輩以外に触られたことがひどく後ろめたかった。  煙草から紫煙をのぼらせ、先輩は僕の顎を掬い上げた。駄目な犬だからと捨てられてしまうだろうか。 「俺の犬でいたい?」 「ッ、はい……!」  すべて捧げるつもりで返事をすると、先輩は薄く笑った。 「じゃあ、虫除け」  先輩の指が僕の襟元にかかる。咥えていた煙草を持ち替えて、その先が僕の首に押し当てられた。 「あ、っ……!」  皮膚が焼ける。僕が痛みに喘ぐうちに、先輩は反対側にも同じように煙草を押しつけた。 「ッ、ぅ」  膝が震える。息の乱れた僕を眺めて、先輩は仕上げのように煙を吹きかけた。 「貼っとけ。見えるように」  絆創膏を差し出され、大人しく受け取る。そっと先輩を見上げると、もう怒ってはいないようだった。いや、はじめから怒ってはいなかったかもしれない。 「もう一人で来んなよ」  先輩はくしゃりと僕の頭を撫でて、暗闇に消えていった。      次の日。  泣き腫らした顔と、襟から覗く絆創膏、制服に残る煙草の香り。声をかけようとした尾崎くんは僕を見て言葉を失い、そのまま話しかけずに離れていった。

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