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第6話 通院

 榊原はまっすぐ家に帰り、その日は仕事を休んだ。  電話で上司に小言を言われたが、どうせ辞めるつもりの仕事だし、もう誰にどう思われても構わなかった。  それよりも身体を早く治せば、また元気になってやり直せるかもしれないという気持ちになっていたので、休息をとることを優先させたのだ。    真っ暗だったトンネルの向こうに、かすかな希望の光を見つけたような気分だった。  自分のベッドに横になりながら、昨日は不思議な一日だったなと思い返す。    倉田稜……知っているのはその名前と外科医であることぐらいだ。  それと離婚歴があり広い家に一人暮らしであること。    いったいどんな男なんだろう。なぜ、あんなにも親切にしてくれたのだろう。  まるで漫画にでも出てきそうな熱血医者だったな、と思うと笑みがこぼれた。  こんな自分を助けてくれる人がいるなんて、まだまだ世の中捨てたもんじゃないな、と思う。  捨てる神あれば、拾う神もあるのだ。    これ以上世話になるのも悪いような気がするが、きちんとお礼をしておきたいという気もする。  それにもう一度会いたいという気持ちも心のどこかにあった。  一緒にいると安心するような、頼りになる優しい先輩のような印象を抱いていた。    夕方になり、近所にある評判の良い和菓子屋に菓子折りを買いに行った。  なぜか倉田は和菓子が好きなのではないだろうか、と想像したのはあの古い家の雰囲気のせいだろう。  夜の外来が終わるぐらいの時間に、榊原は再び倉田医院を訪れた。 「約束通りちゃんと来たな」    榊原の顔を見ると倉田はニヤっと笑った。  逃げ出すとでも思っていたのだろうか。   「ちょっとそこにでも掛けててくれ」    倉田は診察用の丸椅子を指すと、デスクでパソコンに向かって何か処理をしているようだ。  時間外なので倉田は看護婦たちに声をかけて帰らせた。  診察室には二人だけだ。   「昨日は本当にお世話になりました。これ、ほんの気持ちなんですけど」    榊原が菓子折りを机の上に置くと、倉田は手を止めて微笑んだ。   「なんだ、律儀なヤツだな。和菓子は好きなんだ。有難く頂いておくぞ」 「そこのお店が評判なんです。後で食べてみてください」    榊原はやはり和菓子で正解だったな、と安堵した。  よく考えもせずに買ったが、嫌いだという可能性もあったのだ。   「さて、じゃあ、そこにうつぶせになれ」    覚悟をしてきた榊原は大人しく下だけ脱いで診察台に上がった。  恥ずかしいことは恥ずかしいが、今日は倉田が白衣を着ているせいか、医者に診てもらうという頭の切り替えが出来た。  昨日はパーティーで会った見ず知らずの男で、しかも私服だったから緊張したのかもしれない。   「痛いのは一瞬だから、我慢しろよ。もう少しだ。ほら、もうすぐだぞー、もう終わるからなー。よし、これで終わりだぞ」  倉田が処置をしながら小さい子供をあやすような言い方をするので、痛みに耐えながら榊原は笑いそうになった。  語尾をのばすような口調は子供の頃に通っていた歯医者とそっくりだな、と思い出す。   「子供扱いですね、俺」 「仕方ないだろう。痔の患者はだいたい男のほうが暴れたりわめいたりするもんだ」    昨日あんなに怯えたところを見せたから、倉田なりに安心させようと気を使ってくれたのだろう。  優しい男だな、と榊原は嬉しくなった。  お陰でパニックにもならずに済んだ。   「体調はどうだ。少しはマシになったか?」 「はい、今日はゆっくりしましたのでずいぶんマシになりました」 「……大丈夫そうだな」    倉田は榊原の顔をのぞきこむようにして、じっと見つめた。  榊原の目に恐怖の色が浮かんでいないかを確認しているようだ。   「傷は手当てしていれば必ず治る。心も身体もな」 「はい……」    榊原は胸がじわっと熱くなるのを感じた。  この男は心の深いところまで入り込んでくる。  見せ掛けだけの優しさではない。   「楓、メシ食ったか?」    ふいに名前を呼ばれてドキっとする。  親兄弟以外に榊原にそんな呼び方をする人は他にいない。    しかし、考えたら榊原はまだ自分の苗字を教えていなかったと気づいた。  昨日のパーティーでつけていた名札を見て倉田は下の名前だけを知っているのだ。    名前で呼ばれるのは嫌ではなかった。  兄がいたらこんな風に呼ばれるのだろうかと、くすぐったい気持ちになる。  せっかくそう呼んでくれているのだから、と苗字は聞かれるまで黙っていようと考えた。   「向かいのばあさんが俺が一人暮らしだからといつも食事を差し入れてくれるんだが、今日はシチューだ。たくさんもらったからお前の分もあるぞ」 「シチューですか。いいなあ」    一人暮らしでロクなものを食べていない榊原にとってシチューというだけで魅力的だった。  家族がいないとなかなかお目にかかれないメニューである。   「俺もひとりで食うより誰かいたほうがメシはうまい。遠慮せずに食っていけ」    診察室の奥のドアから隣の家の中へと直接つながっていることを知った。  昨日気を失った時、倉田はここを抱きかかえていってくれたのだな、と想像する。  あの逞しい腕に抱かれてベッドまで運ばれたのだ、と思うと覚えていないのが残念なような気がした。  と同時に、俺は何を考えているんだとあわてて否定する。  白馬の王子様じゃあるまいし……と心の中でひとりでツッコミをいれてしまった。  

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