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──わざわざ、紙に書くまでもなかった。
山吹がそう気付き、そして確信を得たのは、異動してから一ヶ月後のことだった。
『──やり直しだ。全然できてねぇ』
ピリッと、事務所内の空気がひりつく。
空間を一瞬にして極寒レベルに仕上げたのは、声の主──桃枝だ。
桃枝はあてがわれている課長席に座ったまま、一人の部下に書類を突き返していた。
『驚愕だな。俺は確か、お前に一週間の作業時間を与えたはずなんだが』
『な、なので、そのっ。一週間かけて、作ったのですが……っ』
『だから言ってるだろ、驚愕だって。なんだよ、この出来栄えは? ただ時間を浪費しただけじゃねぇか。ちゃんと頭を働かせたのか? 新人の頃の方がまだマシだったぞ、お前の作る書類。今のお前が作る書類はてんで駄目だ。やり直せ』
言葉をナイフにでもしたいのか、桃枝が放つ言葉は辛辣そのものだ。
『また始まった。桃枝課長のパワハラ』
『あれで辞めた人、何人いたっけ?』
『知ってる限りだと、五人くらい』
周りの先輩方がそう言う中、山吹は桃枝と一人の職員のやり取りをボーッと眺める。
以前、山吹がいた課の課長は温厚な男だった。いつも笑みを浮かべ、コミュニケーション能力が高く、部下や上司に対する気配りも完璧。まさに、理想的な上司像そのもの。
対して、桃枝はどうだろう。そばに立つ部下には目もくれず、まるで相手の心を切り裂くかのようにきつい言葉だけを与え、そこで関係を遮断している。あれでは【対話】になど発展できるはずもない。
『……作り、直します……』
職員はそう呟き、突き返された書類を握り締める。……クシャリと、悲しい音を立てながら。
ちなみにこうした光景を、山吹は今日、初めて見たわけではない。異動してきた初日から、ほぼ毎日のように見ていた。
わざわざ、頼むまでもない。桃枝という男は誰に対しても辛辣で、冷酷非道な人間だった。
すると、終業時間を知らせるチャイムが鳴る。周りの上司や先輩たちは早々に立ち上がり、ヒソヒソと会話を始めた。
『ねぇ、主任。ここはひとつ、アイツを誘って飲みに行きませんか?』
『あぁ、それもそうだな。今ここでアイツに辞められたら、次から誰が課長に書類作成を頼まれるか分かったもんじゃないからな』
『じゃあ私、誘ってきますねっ!』
とてつもない連係プレーだ。慰めに対して、一切の迷いがない。……それが善意からきているのかは、度外視して。
しかし、この一ヶ月で山吹が気付いたことは他にもあった。どうやらこの課内の人間関係は、なかなかの厚みがあって良好らしい。
──課のトップを、除いて。
『山吹君もどうだい? 今晩、予定がないなら』
『そう、ですね……』
チラリと、山吹は桃枝を見る。パソコンを睨み、まるで放つオーラで他人を寄せ付けない結界を貼っているかのような、その姿を。
すぐに、山吹は上司を振り返り……。
『ごめんなさい、主任。この後、予定があるので』
『そうかい? それは残念だ』
『次の機会があれば、是非』
やがて、事務所内から職員たちが退出していく。その群れの中には、先ほど桃枝が放つ言葉によってズタボロになった職員もいた。
途端に、事務所には山吹と桃枝の二人となる。定時で帰れるのは素晴らしい職場だと、山吹はしみじみと感動を噛み締めた。
山吹も山吹で、退出の支度を始める。作業を止め、パソコンをシャットダウンし、鞄を手に持って……。
『──課長。良ければこの後、ボクと飲みに行きませんか?』
もう一人の残された男を、連れ出そうとしつつ。……山吹は、事務所を後にするのだった。
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