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 帰宅準備を終えて、数分後。  歩いて通勤や退勤をするのに徒歩でも全くもって苦にならない距離を桃枝の車で移動した二人は、山吹が暮らすアパートの一室へと辿り着いていた。 「ここが、ボクの部屋です。……とは言っても、課長と言う立場を使えばボクの住所とか部屋の番号は分かっていると思いますが」 「そんな職権乱用みたいなことしねぇよ。知ってたのは、アパートの場所だけだ」 「知ってるんじゃないですか」  玄関扉に鍵を差し込みながら、山吹はヘラリと笑う。 「でも、課長ならいいですよ。直属の上司ですし、一応……恋人、ですし」 「……【一応】は、余計だろ」  桃枝からの反論に「あはは」と笑い返しながら、山吹は玄関扉を開いた。 「どうぞ、課長。お望みの【ボクの部屋】ですよ」 「あ、あぁ。……邪魔するぞ」 「どうぞどうぞぉ~」  靴を脱ぎ、即座に揃える。桃枝の所作に小さく感動しつつ、山吹もそれに倣った。 「ちょっと、課長? 立ち止まらないで、早く中に入ってくださいよ」 「そっ、そうだな。悪い、緊張している……っ」 「わぁ~っ、ウブぅ~っ」  言葉通りに緊張している桃枝の背を押し、山吹は次の扉を開くように急かす。山吹らしい揶揄いの言葉を添えつつ。 「……邪魔、するぞ」 「それ、さっきも聞きましたよ?」  二度目の挨拶をした後、桃枝は扉を開いた。惚れた男が暮らす、プライベート感満載の部屋を見るために。  しかし、扉の先を見た後。桃枝は、甘ったるい言葉も空気も作ることができなかった。 「──なん、だ。この、部屋……ッ」  驚愕。そして……。  ──絶望感にも似た動揺で、桃枝の思考は埋め尽くされたのだから。  置いてある物は、最小限。冷凍庫付きの冷蔵庫と、電子レンジ。それ以外には、一人用のテーブルがひとつ。これは山吹が言っていた通り『なにもない』という形容も納得なほどだ。  だが、桃枝が驚いたのは家具の少なさからではない。 「あっ、気にしないでくださいっ。強盗が入ったとかじゃないのでっ」  ──傷付き、凹んだ壁。  ──形が変わり、おおよそ出入口としての機能を果たせないであろう、視線の先にある扉。  ──傷だらけのフローリングはまるで、誰かが暴れたように痛々しい。  山吹は異質な部屋に入り、堂々と上着を脱いでいた。 「課長の上着、貸してください。ハンガーに掛けますから」 「山吹、お前……っ。なんで、こんな部屋に……ッ」 「『なんで』って、そう訊かれると『引っ越す余裕がないから』としか言えないのですが? 壁とか床とか、直すお金がないんですよぉ~」 「そうじゃなくてッ! なんなんだよ、この部屋……ッ!」  今さら、隠そうと足掻くのもおかしな話か。自分のことだというのに、妙に冷静な自分がいた。 「この部屋はですね、課長。数年前まで、家族三人で使っていた部屋なんですよ」 「お前と、両親か?」 「はい、そうです」  サラッと答えた山吹は、上着を受け取るために桃枝に手を伸ばす。 「──父さんが母さんをいっぱい殴って、母さんが死んだ後に今度はボクを叩いて蹴った。そういう部屋なんですよ、ここは」  普段通りの、愛らしい笑みを浮かべながら。

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