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 今日も今日とて、桃枝が山吹へ抱く恋情は健在らしい。  たとえ話題がなくとも、急用がなくとも、必要がなくとも、声が聴きたい。なんて分かり易くて、可愛らしい恋情だろうか。 「そう言えば、そろそろ決算ですよね。三月の管理課って忙しいんですか?」  だからか、山吹はついつい話題を作ってしまう。  今までの通話も、なんだかんだと仕事の話をしてしまった。それは、桃枝が得意そうな話題を選択した結果だ。 『いや、三月自体はそうでもねぇな。三月の締めが終わった後──四月の方が、断然忙しい』  案の定、桃枝の声は普段通りのものとなった。完全に緊張は解け、平常通りの心持ちになったようだ。 「残業とか増えますか? ボク、定時に帰りたい系男子なんですけど」 『こればっかりはどうにもな。けど、お前が忙しいのは四月の頭くらいまでだ。一次締めが終わればむしろ、暇になるんじゃねぇか』 「課長は四月中、ずっと忙しいんですか?」 『そうだな。決算締めが終わったらすぐに内部と外部の監査が入るから、その対応もしなくちゃならねぇ。……毎年、四月だけ時の流れがおかしいとすら思う』  おそらく、今の桃枝は死んだ魚のような目をしているだろう。管理課は事務の総括といったポジションなだけに、その課の長ともなると、さすがの山吹でも苦労が目に浮かぶ。  けれど、山吹は山吹だ。 「へぇ~っ? 課長でも仕事に忙殺されることがあるんですねっ?」 『お前、なんで楽しそうなんだ?』 「だってボク、課長が困ってるのを見るとワクワクするんですもんっ」 『……クソッ。今のお前の弾んだ声、メチャクチャに可愛かったぞ……ッ』 「ありがとうございまーす。……でも、苦しそうに呻く課長の声も魅力的ですよ? ちょっぴり性的で、ゾクゾクしますっ」 『それはどうも。不思議と褒められた気はしねぇがな』  桃枝を揶揄うことに、今日も余念がない。  とは言いながらも、僅かばかりに心配はしているつもりだ。異動したての新人ができるサポートはたかが知れているが、それでも頑張る桃枝の労をねぎらいたい。  山吹は少しの思案後、ひとつの閃きを得た。 「あっ。それじゃあ、四月中は毎日お弁当を作りましょうか? 課長の好きなものを教えてくれたら、重点的にオカズとして突っ込みますよ?」 『それはかなり喜ばしい提案だが、お前の負担がデカいだろ。決算が忙しいのなんて毎年のことだし、俺だけの激務ってわけでもねぇんだよ。いいから、気にすんな』 「別に、さほど苦ではありませんよ? 前にも言いましたけど、ボクは毎日自分のお弁当を作っているので、一人分増えたところで負担らしい負担はありません」 『そうなのか? ……いや、でもな……』  揺れている。相変わらず、桃枝は優しい男だ。  だからこそ、山吹は桃枝を揺さ振りたくて仕方ないのだが。 「──ふぇ……っ。ボクの手作りのお弁当、おいしくなかったんだ……。この前、課長が喜んでくれたのは演技だったんだぁ……っ」  桃枝からは見えていないのに、山吹は切なげに眉を寄せる。そのまま口元に指を添え、わざとらしく鼻をスンッと鳴らした。  圧倒的な、嘘泣き。クスンクスンと声を漏らす山吹を相手に、生真面目で融通の利かない桃枝はあっさりと翻弄される。 『ッ! そッ、そんなことねぇッ! ウマかったッ! 世界で一番だったッ! メチャクチャ嬉しかったっつのッ!』 「でも、今『要らない』って……っ。『山吹が作った弁当なんか、二度と食いたくない』ってぇ……っ」 『いやいや待て待てッ! 確かに断ったが、誰もそこまで言ってねぇだろッ! 欲しいに決まってるだろッ! 毎日でも食いたいくらいだッ!』 「ふえぇんっ、信じられないよぉ……っ。課長の口から『四月は山吹の弁当が食いたい。俺の分も作ってくれ。食わなきゃ死んじまう』って言ってもらわないと、ボク、悲しいままだよぉ……っ」 『四月は山吹の弁当が食いたいッ! 俺の分も作ってくれッ! 食わなきゃ死んじまうッ!』 「──はい、言質。では、四月を楽しみにしていてくださいね」 『──ハッ! まさか嘘泣きかッ!』  ケロリと素に戻った山吹に、桃枝はガガンとショックを受けたのだが。その反応も含めて、山吹にとっては大満足の結果となった。

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