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手が放され、ようやく桃枝は立ち上がることができた。
「なんて返せばいいのか、分からねぇ。ただ、なんだ。……お前の中で、俺に対する気持ちが少しでも傾いてくれたなら、嬉しく思う」
「申し訳ないですが、そういう話ではないですよ」
「分かってる。ただの願望だ。一先ず、お前の礼は受け止めた。結果的に喜んでもらえたなら、俺は満足だ」
もう一度、頭が撫でられる。けれどその手は、思ったよりも早く離れた。
「それじゃ、今度こそ」
「はい。来てくれて、ありがとうございました」
「どういたしまして。……明日は終日予定があって、こっちに顔を出せそうにないんだが。もしもなにかあったら、連絡してくれ。それと、安静にしろよ」
「はぁいっ」
桃枝は寝室から出て行き、玄関へと向かう。追うことも見送ることもできないまま、山吹は桃枝の背中が見えなくなるまで見つめた。
やがて、通路への扉が閉ざされて。少ししてから、硬い物が落とされた音が聞こえるまで。山吹はずっと、玄関がある方向を見つめ続けた。
部屋に一人きりとなった山吹はそれでも視線を移せないまま、誰に言うでもなくポツリと呟く。
「許しとは、踏みにじられたスミレの花が、自分を踏みにじった踵に放つ香りである。……か」
山吹は頭が良くなく、培った努力でカバーをしているだけで、根本的には不器用な人間だ。桃枝の悪い部分を指摘する権利なんて、本来は持ち合わせていない。
それでも、どれだけ頭が悪くても。……本当は、とっくに気付いている。
──桃枝の愛情が本物で、山吹が求めている愛情は歪でおかしいものなのだと。
それでも、山吹は信じるしかなかった。どうしたって、山吹は両親を『おかしい』と認めたくないのだから。
だが、こうして山吹が意地になっている間。……桃枝はずっと、山吹に実らない片想いをし続けているのだ。
いつまで続くのかは、分からない。山吹の意地も、桃枝からの好意も……。どちらかは必ず終わるのだと、山吹は──おそらく桃枝も、気付いているだろう。
桃枝が言っていた通り、桃枝と山吹は平行線上を歩き続けている。道が交わる方法は、どちらかが大切な壁を壊すのみ。
山吹が【幸福な家族】を捨てるか、桃枝が【山吹との幸福】を捨てるか。どちらかを失わないと、二人の道は交わらないだろう。
しかし、山吹は同時に知っていた。桃枝の幸福を願うのならば、捨てるべきなのは桃枝が抱く【山吹との幸福】なのだ。山吹のような未熟者では、桃枝を幸せにできない。
不意に、山吹はこんな言葉を思い出す。……人の不幸は、蜜の味。よく言ったものだ、涙が出そうなほど愉快な言葉だろう。
二人の関係に当てはめるのなら、今の状況こそが桃枝にとっての【不幸】で、そうした【不幸】の上で山吹は【蜜の味】を舐めているだけ。あまりにも、桃枝が救われないストーリーだ。
桃枝には、幸せになってほしい。桃枝は、幸せになるべき人のはずだ。
「課長が不幸になるのは、イヤだな……」
桃枝を愛し、そばにいて、笑顔が溢れる世界を共に見つめる相手。桃枝が選び、添い遂げる相手はそういった人であってほしかった。
可能であれば、桃枝を幸せにする相手は──……。
「……なに考えてるんだろ、ボク。バッカみたい」
全ては、熱のせい。きっと、そうに決まっている。山吹は毛布を被り直し、そっと目を閉じた。
あえて、体温計で熱を測りはしない。自分が今、熱に浮かされていないなんて。目で見て、自覚をしたくないから。
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