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 後始末を終えた桃枝はふと、時刻を確認した。 「もうこんな時間か。……悪かったな、山吹。突然、押しかけて」 「ホントですよ。風邪がうつっても知りませんからね」 「そこはなんか、いい感じの返事をくれよな」  ベッドから降りた桃枝は、帰り支度を始めている。 「本当はもう少し一緒にいたいんだが、これから用事があるんだ」  すっかり忘れていたが、そう言えばそんなことを桃枝は言っていた。山吹は上体を起こし、桃枝を見送ろうとする。  それにしても、こんな時間からいったい誰との予定だろうか。当然の疑問を抱きながら、山吹は訝しむような目を桃枝へと向ける。 「浮気ですか?」 「断じて違う。冗談でも言うな、怒るぞ」 「課長って、怒りの沸点低くないですか?」 「俺はな、山吹。お前への気持ちを、他の誰でもないお前から疑われるのは我慢ならねぇんだよ」 「そ、れは。……ごめん、なさい」 「あっ、いや……」  バレンタインの失敗がよほど堪えているらしい。山吹の落ち込み方は、大袈裟なほど大きい。 「……クソ、悪かった。今のは、言い過ぎた。お前の言う通り、俺は沸点が低いな」  頭をポンと撫でられた後、山吹はそっと肩を押された。見送りは必要ないから寝ていろ、という意味だろう。 「先約があるんだよ、仕事の関係で。どうしても、外せない」 「いいですよ、全然。電話でも言ったじゃないですか。風邪を引いても、ボクは一人でどうにかできるって」  毛布を掛けられながら、山吹は桃枝を見上げる。その表情からは決して悲観ぶっているわけではなく、本心からの言葉を訴えていると見て取れた。 「お前のため、とかじゃなくて。……俺がお前から、離れたくない」  そのせいか、桃枝からの言葉も素直なものだ。もう一度頭を撫でられながら、山吹は眉を寄せる桃枝を見つめた。 「次からは、頼ってくれ。お前のためじゃなくて、俺のために」 「なんですか、そのセリフ。ワガママですね」  だが、山吹は分かっている。この言い方は、桃枝なりの優しさだ、と。  こう言えば──こう言った方が、山吹は頼り易くなってくれる。そう、桃枝は分かっているのだ。 「クソ、離れたくねぇ……」  心底名残惜しそうに、桃枝は山吹を抱き締める。  今度は腕を回せないまま、山吹はただ黙って、桃枝の腕に抱かれた。 「それって、ボクが心配だからですか?」 「惚れた相手と好き好んで離れたがる奴なんていないだろ」 「そういうものですか」  素っ気ない返事にはなんのコメントもせずに、桃枝は離れがたそうに山吹から身を離す。 「じゃあ、本当にそろそろ帰るぞ。鍵は郵便受けから落とすから、お前は安静に──」 「──課長、待ってください」  帰ってしまう。そう思うと山吹は、咄嗟に桃枝の袖を引いてしまった。  名残惜しいわけでは、きっとない。山吹が桃枝を引き留めたのは、そんな甘い理由からではなかった。 「今までボクは、優しい言葉をかけられたり、形だけの心配をされたりしたことはありました。……でも」  今日の自分は、どうかしている。山吹には十分、自覚があった。  それでも、山吹は伝えたかったのだ。 「──こうして、ボクのためになにかをしようとしてくれた人は……課長が、初めてです。だからっ。……だから、ありがとうございましたっ」  今日というたった一日で、山吹は桃枝から、沢山のものを貰った気がした。  そこに、応えることはできなくても。それでも、感じたことを素直に伝えたかったから。  信頼をくれたから、山吹からも信頼を。……随分と、桃枝の言葉に翻弄されているものだ。そう自覚をしながらようやく、山吹は桃枝の袖から手を放した。

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