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5.5章【困れば悪魔は蝿を食べる】 1
二月の末日。
仕事終わりの山吹は、桃枝と共に居酒屋で食事をしていた。
特に恋愛的な展開へは発展せず、そのまま退店。店内で温まった体が夜風によって冷まされる中、不意に桃枝は口を開く。
「そう言えば。……山吹。少し早いが、ホワイトデーに欲しい物はあるか?」
「はいっ?」
放たれた単語を聞き、思わず山吹は動きを止めかける。
「ホワイトデー、ですか? ……えっ、いやいや。なにを仰っているんですか、課長? だってボク、バレンタインに課長からネクタイを貰いましたよ? お互いにプレゼントを渡したなら、トントンじゃないですか」
先日終えたばかりの、バレンタイン。相変わらず恋愛というものをイマイチ理解できていない山吹が失敗をしてしまった、あのイベント。
その日確かに、山吹は桃枝とバレンタインプレゼントを【渡し合った】はずだ。ゆえに、桃枝からの問いは要領を得ない。山吹が困惑を表情に浮かべているのは、道理だろう。
だというのに、対する桃枝は堂々としている。
「あれは、別に。バレンタインにかこつけて、お前になにかを渡したかったんだよ。好きな奴相手に【貢ぎ】は基本だろ」
「せめて『プレゼント』と言ってほしかったです」
自分の主張に、おかしな点などひとつもない。そう言いたげな桃枝の態度に、山吹はなおさら困惑する。
そうした山吹の戸惑いが伝わったのか、桃枝はさらに言葉を尽くす。
「三月からは忙しくなるし、じっくりなにかを選んでやれる余裕がなくなるのが分かってる。だから、今のうちにお前を喜ばせたいんだよ。いいから、黙って受け取れ」
言葉を連ねられたところで、やはり山吹の理解は追い付かない。屁理屈にしか聞こえないからだ。
……だが、しかし。
「……っ」
何度目か分からない、胸の締め付け。甘く優しく締め付けられた胸をどうすることもできず、山吹は桃枝から視線を外した。
すると、偶然。
「あっ。……あれ、カワイイですね」
山吹の視界に、パンダのぬいぐるみが入った。
おそらく、雑貨屋だろう。ガラス窓から見える内装には、可愛らしい商品がひしめいている。
その中で目についたのは、そこそこな大きさのぬいぐるみだった。山吹が抱きしめれば、おそらく上半身はすんなりと隠せるだろう。
目に入り、感じたことをただ口にした。山吹の呟きを受けて、桃枝も立ち止まる。
「『あれ』って、どれだ?」
「奥にある、ホラ。あそこにドシンと構えているパンダのぬいぐるみです」
「あの、やたらとデカいやつか。……お前、あぁいうのが好きなのか?」
「えっ?」
確かに、気にはなった。……が。果たして、それは『好き』という単語が持つ意味合いに対して適当な感情なのか。
桃枝の看病をしてからか、あるいは桃枝に看病をされてからか。山吹は今まで以上に【好き】が分からなくなっていた。
そんな山吹が、桃枝に対して【好き】について説いていいのか。……【好き】を知っている、桃枝に。
「……なんちゃって。社会人にもなった男が、そんなこと言うわけないじゃないですか」
言えるわけが、ない。ただ目に映り『可愛いな』と思っただけで、それ以上の特別な感情なんて、ありはしないのに。
それはまるで、逃避のようで。山吹はそう自覚しながら、強引に話題を終わらせた。
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