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怒涛の三月が終わり、四月が始まる。
三月の下旬に、桃枝を傷つけて。そこから数日経った今現在、山吹は『完全に元通りなのか?』と問われても、未だに『はい』とは言えそうになかった。
それでも、以前とは桃枝との付き合い方が変わったと思う。これは当然、マイナスな意味合いではなく、だ。
「課長、これ。約束していたお弁当、です」
四月の、最初の日。昼休憩時間になってから、山吹は桃枝に弁当箱を手渡した。
「あぁ、ありが──」
「お弁当箱は、洗わなくて大丈夫です。食べ終わったら、ボクのデスクに置いてください」
「そうか。あり──」
「玉子焼きはしょっぱくしましたけど、他の料理で気に入らない味付けがあったら教えてくださいね? 明日からすぐ、改良しますので」
「分かった。あ──」
「それと、お米の炊き方もご意見ありましたら言ってください。あとあとっ、他にも──」
「──頼むから礼を言わせてくれないか」
ぐぐっ、と。二人は弁当箱を握りながら妙な攻防戦を始めている。ペラペラと言葉を連ねる山吹が、弁当箱を素直に手渡そうとしないからだ。
山吹は桃枝から顔を背けつつ、早口になりながら言葉を続ける。
「だっ、だって。家族以外にお弁当なんて作ったことないですし、いや課長には一回ありますけどっ、だけど一回だけだから自信がないと言いますか。いえ、自分の料理がヘタとは思っていませんよ? ご飯で父さんの機嫌を取るのは結構自信があったので──って、そうじゃなくて。つまりあのっ、だからっ、マズくはないのですが課長からの意見があまり踏襲できていないなって思って──」
「くれるのかくれないのか、いったいどっちなんだ」
「あげたいけどあげられないんです……!」
まさか、こんなにも緊張するなんて。どうして軽い気持ちで『お弁当を作ります』などと言えたのだろう。山吹は、過去の自分が不思議で仕方なかった。
あの一件以来、どうにも落ち着かない。桃枝の顔が見られず、思考もまとまらず、空回りを極めているような。人との関わり方が下手なつもりはないが、自信を喪失しそうだった。
それなのに、桃枝は変わっていない。さほど感情の起伏が激しいタイプではないが、それにしたって落ち着きすぎているのだ。
これほど意識をし、果てに動揺を露わにしていてはまるで、山吹が桃枝のことを好──いや、違う。山吹は慌てて首を横に振り始めた。
「山吹? どうした、いきなり?」
「課長は朴念仁、課長は鈍感、課長はパワハラ上司、課長はザンネンな人、課長はダメダメな人……っ!」
「なんで俺は好きな奴からいきなり罵られ始めたんだ?」
この関係性において、桃枝の方が優位だなんて認められない。山吹が桃枝を揶揄い、山吹が桃枝を翻弄し、山吹が優位でなくてはいけないのだ。
ブツブツと、まるで呪詛のように。山吹は桃枝がどういう男なのかを口にしながら、弁当箱を掴み続ける。
そんな山吹を見上げて、突然駄目出しをされ始めた桃枝はと言うと。
「──まぁ、どんな内容であろうとお前から真剣な評価を口にされるのは……そうだな。悪くはない、な」
「──っ!」
パッと、山吹は桃枝から距離を取る。
引っ張り合っていた弁当箱から山吹が手を離したことにより、桃枝は椅子ごと少しだけ後方へと下がった。
「うおっ! いきなり手を離すなよ、馬鹿ガキが! 危ないだろ!」
「えっ。あっ、えっと、ろっ、労災ですよねっ! 課長、大丈夫ですかっ?」
「これで労災申請は恥だぞ。あと、俺じゃなくてお前の方だ。周りを見ないで後退って、怪我でもしたらどうするつもりなんだよ、阿呆。心配させんな」
「──えあぅ!」
「──どういう反応なんだ、それは」
おかしい。確実に、自分はおかしくなっている。
「無事ならそれでいいし、元気ならそれでいいがな。……弁当、ありがとな」
「あ、えっと、は、はい……っ!」
桃枝に心配されて、桃枝に笑みを向けられて。こんなこと、今までだって何度もあったというのに。
頬が、勝手に熱を集めてくる。頭が、言葉を生んでくれない。
山吹は「失礼します!」と言った後で自分のデスクに戻り、自分用の弁当箱を引っ掴んでから、事務所を後にした。
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