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 気にかけられて、声をかけられて。たったそれだけで鼓動が騒ぎ始めるなんて、やはりおかしい。  あの一件に対する罪悪感は、桃枝の言葉もあってそこそこ薄れたはず。それなのになぜ、山吹は桃枝を相手にここまで動揺してしまうのだろうか。  なぜだか、二人でいたくなくて。逃げ出したい衝動に駆られた山吹は、急いで退勤準備を始めた。 「いきなり雨が降っちゃうなんて、ツイてないですよねっ。あっ、そうです! 今日は帰ったら早速、折りたたみ傘をネットで買っちゃいましょうかねっ! カワイイ傘があるといいなぁ! そうと決まれば早く帰ってチェックしなくちゃっ! 忙しくなってきたぞ~っ! と言うわけでっ、失礼しますっ!」 「──なんでそんな説明口調なんだよ」  自然な逃避、失敗。山吹は「あはは~」と笑いつつ、一先ず椅子から立ち上がる。  立ち上がったのならば、どう見ても『山吹は帰る』と分かるだろう。それなのになぜか、桃枝が動かない。桃枝が動かないのならば、山吹も強引には帰れなかった。 「あの、課長? ボク、そろそろ帰ろうかと……」 「そうだな。なら、車で送ってやる」 「えっ! いっ、いえっ、そんなっ。走って帰ればなんとか──」 「なるかよ馬鹿。いいから、乗っていけ」  密室──ではなく、車内に二人きり。当然、その状況は回避したい。  だがなによりも、山吹は知っていた。この時期、桃枝はまだまだ忙しいのだ、と。  おそらく、今日も残業だろう。つまり桃枝は、山吹をアパートまで送った後に再度、事務所へ戻るということだ。それは、さすがの山吹でも気が引ける。  咄嗟に返事ができず、オロオロと狼狽。山吹の様子を見て、桃枝は眉をさらに寄せた。 「傘なら二本あるし、駐車場までも濡れなくて済むだろ。お前にとって、不満な点はないはずだが?」 「そ、れは。そうかも、しれないですけど……」 「なら、送らせてくれ。最近は寝ても覚めても仕事のことばかりで、あまりお前に構えていないのが気になってたんだよ」 「忙しいのは、分かっているので。別にボクは、そんなの……」  まただ。鼓動が、バクバクと激しく存在主張を始めている。こんな状況で桃枝と二人きりなんて、なにをしでかしてしまうか分からなかった。  すぐに山吹は、落ち着きを取り戻すために過去へと思いを馳せる。思い返すのは当然、楽しくなかった記憶だ。  雨、と言えば。幼かった頃の、とある雨の日。傘を忘れても、親は迎えに来てくれなかったことが常だった。周りの子供は親と手を繋いで帰っていたが、山吹だけは……。  自業自得ではあるが、山吹は落ち着くどころかむしろ、落ち込んでしまう。平静さを取り戻すために思い出したことが【雨が止むまで学校の玄関で空を眺めていた記憶】なんて、あまりにもミスチョイスすぎる。  それに、これは山吹の良くないところだ。いちいち、なにかにつけては過去を思い出して……。だから山吹は、いつまで経っても変われない。  ここに、親はいないのだ。ここにいるのは、自分と桃枝だけ。いつまでも逃げていては、どれだけの時間を有したところで桃枝に恩返しなんてできない。  ならば、と。山吹は拳を握り、桃枝を見上げた。 「──駐車場まで、傘を差して歩きたいです。……課長と、相合傘が、してみたいです」  どうか、雨音よ。心臓の音が桃枝に聞こえないよう、強く激しく降り注いでくれ。ついさっきまで恨んでいたはずの雨に、山吹は本心からそう願い始めた。

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