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数分後、桃枝はようやく受話器を下ろした。
「はぁっ。……引き留めて悪かったな、山吹」
「電話、大丈夫ですか?」
「縮小云々の説明は諦めたが、とりあえずファックスで送るってことで問題はねぇみたいだな。……それよりも、だ。お前さっき、どっか行こうとしてただろ。便所か?」
「いえ、そういうわけではありませんが……」
掴まれた手首を、ジッと見つめてしまう。山吹の視線が自分を見ていないと気付いた桃枝は、すぐに山吹の視線を追い……慌てて、手首から手を放した。
「っと、悪い。……それと、嫌だったろ。隣に、憤った男がいて」
まさか、自己嫌悪をしているのか。山吹は慌てて、首を横に振る。
必死に否定する山吹を見て、桃枝は苛立たしそうに眉を寄せた。
「癒しが、欲しかったんだ。悪かった」
決算月が終わり、多忙を極めている中での監査。加えて、面倒な相手との電話だ。今頃になって、山吹は桃枝のストレスを理解する。
誕生日が、どうした。そんなこと、考えている場合ではないだろう。山吹はニコリと笑みを浮かべて、桃枝を見る。
「お役に立てたなら光栄ですっ。それと、これはお節介かもしれませんが……課長。今日で監査も終わりですし、他の業務が落ち着いているのでしたら、今日は早めに帰宅した方が良いのではないでしょうか?」
むしろ、良いに決まっているではないか。我ながら、なかなか上司想いな発言ができたものだ。笑みの下に、山吹は自慢気な態度を隠す。
対する、桃枝の返答はと言うと──。
「──それは断固として拒否する。俺は今晩、お前と外食することを楽しみに今日という日に挑んでんだぞ。直帰なんかできるかよ」
なんとも、大人気ないものだった。上げていた山吹の口角がピクリと一度、ひくつくほどに。
よほど、桃枝は山吹の誕生日を──否。山吹との時間が欲しいらしい。気付くと、山吹はわざとらしくため息を吐いてみせた。
「なんですか、それ。まったく……これじゃあ、どっちのための外食か分かったものじゃありませんね」
「そうだな」
返ってきた肯定に、山吹は笑みを失くすしかない。笑いを作るのが馬鹿馬鹿しく思えたからだ。
山吹から呆れたような目を向けられている桃枝は、既に機嫌が良くなったらしい。
「今晩の行きたい所、決まったか?」
楽しそうな声音で、そう訊ねてきたのだから。
そこまで楽しみにされてしまうと、拒否もできない。果たして、誰のための食事なのか。冗談のつもりで発した言葉が、真実味を帯びていく。
「それなら……課長の好きなお店とかじゃ、ダメですか?」
「俺の? そうなると、普通の定食屋だぞ?」
「はい、そこがいいです」
「俺は別にどこでもいいと言えばいいんだが……。変な奴だな、お前は」
どうせ行くのなら、桃枝にもいい思いをしてほしい。なぜなら……。
──桃枝と誕生日に外食ができるだけで、山吹は。……それ以上の言葉を、付け足せなくても。
「弁当、ありがとな」
「はい。……じゃあ、失礼します」
「あぁ。また、今晩」
「えっ、と。……は、はい。よろしく、お願いします……っ」
今晩、桃枝と過ごしたのなら。山吹はようやく、この不可解極まりない心象に名前を付けられるのだろうか。そんなことを思いながら、山吹は桃枝に頭を下げた。
付けたいのか、はたまた、付けたくないのか。なんにせよ、桃枝に首を絞めさせた翌日から続く不調が終わるのかも、と。山吹は期待と不安が入り混じった気持ちのまま、自分のデスクへと向かった。
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