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誕生日に、楽しい思い出はなかった。
『今日は緋花の誕生日ですね。さぁ、緋花。なにか言うことがありませんか?』
山吹の誕生日の、朝。母がいつも以上に明るい笑みを浮かべていたことを、山吹は鮮明に憶えている。
そして、その笑みがさらに輝く方法を。幼い山吹は、知っていたのだ。
『父さん。ここまでボクを育ててくれて、ありがとうございます』
『さすが緋花ですねっ、よく言えましたっ』
山吹の誕生日は、父への感謝を口にする日。山吹の誕生日は、主役が父だった。
それが間違いだと、山吹は思っていない。一家の大黒柱として頑張ってくれているのは父で、母に仕込まれた【誕生日に告げる父への感謝】は正しい。山吹の母は専業主婦だったので、山吹家の稼ぎ頭は父しかいなかったのだから。
……だから、山吹には分からなかった。山吹の誕生日を『めでたい』と言った、桃枝の気持ちが。
昼休憩を終えてから、数時間後。終業時間を知らせる音が事務所に響くと、山吹はガチリと体を硬直させながら、様々なことを考えた。
誕生日は、どう過ごすのが適切なのか。どう振る舞えば桃枝の機嫌を損ねず、且つ喜んでもらえるのか、と。山吹は桃枝に誕生日を打ち明けてからずっと、考え続けていた。
もう、失敗は許されない。これ以上、山吹のせいで桃枝を傷つけたくはないのだ。
山吹は桃枝から、沢山のものを貰った。物理的にも、そうじゃない意味合いでも。だからこそ山吹は、自分の無知ゆえの失態を引き起こしたくなかった。
今日こそは、周りがする【普通】を完遂する。そして今日こそ、山吹はこの不可解な気持ちをありのまま桃枝に伝えたい。そうすれば、きっと、きっと……。
「──山吹? なんでデスクトップ画面を睨んでんだ?」
「──ひゃんっ!」
背後から突然、桃枝の声が届く。山吹はビクリと体を震わせて、桃枝を振り返った。
「なっ、なんっ、なんでっ! ダメです課長っ、事務所にまだ人が……っ!」
「いないっつの。全員、とっくに帰ったぞ」
「でっ、でもっ! 課長は監査士さんたちをお見送りしに行くんじゃ……っ?」
「それもとっくに終わった」
いつの間にか、そんなに時間が経っていたらしい。山吹がアワアワと慌てふためく様子を不審がりつつ、桃枝は山吹に顔を近付ける。
まさかここで、キスをされるのか。山吹は咄嗟に、目を閉じることもできない。
顔を近付けてきた桃枝は、そのまま山吹の耳元に唇を寄せて……。
「さっきの、お前の驚いた声。……とてつもなく、可愛かったぞ」
普段の桃枝らしい言葉を、照れくさそうに囁いた。
事務所に誰もいないとしても、細心の注意を。万が一にも誰かに聞かれないよう、桃枝は囁きで山吹に気持ちを伝えた。
無論、そうした事情全てを承知したとしても、山吹の頬はカッと熱を帯びた。
「っ! かっ、課長のヘンタイっ! バカっ!」
「声に対する感想を述べただけだろうが」
「述べ方と言うか、もうとにかく全部ですっ! 声フェチ! エッチ!」
「やめろ山吹。俺の配慮が無になる」
赤くなった顔を見られるのが嫌で、山吹は桃枝の顔をグイッと強引な手つきで上へと向ける。
そうして山吹が焦っている理由を分かっていない桃枝は、珍しく慌てふためいている様子を見て『その様も可愛いな』と思ったのだが……。さすがにその感想は、口にしなかった。
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