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おかしい。管理課は既に、監査士を見送ったはず。
ならば監査士──黒法師がここにいるのは、どう考えてもおかしい。どうやら、桃枝も山吹と同じ考えの様子だ。
「お前、こんなところでなにやってるんだよ」
「自分でも驚愕なんやけど、迷子をやっとる」
「はっ? なんでだよ。……っつぅか、一緒に来てた監査士はどうした?」
「聴くも涙語るも涙なドラマがあったんよ」
案の定、またしても道に迷っているらしい。山吹にとっては、至極どうでもいい都合だ。
だが、桃枝にとっては違う。桃枝にとって黒法師は、友人なのだから。
「僕、会議室に忘れ物をしてな? それを取りに戻ってきたんよ。もちろん、他の監査士には『大丈夫か』なんて心配はされたで? けど、さすがにもう何回も来た場所やもん。それに外観を覚えとるから、来た道を戻れば平気や。……けど、問題はその後でなぁ」
「なるほど。オチは分かった」
「いや最後まで聴いてや」
よほど心細かったのだろう。知り合いを見つけた黒法師のテンションは、どちらと訊かれずとも高い。
「オッホン! ……ええっとな? こっちに戻ってくるのは余裕やったんやけど、むしろ逆に、ホテルの場所が分からんことを失念してたんや。このホテルなんやけど、ここからどうやって行くん?」
「少なくとも今の現状で、馬鹿なお前でも確実に分かることがある。それは【お前の力じゃ絶対に辿り着けない】ってことだな」
「なんでやねん」
「それはこっちのセリフだ馬鹿野郎」
黒法師は手にしたスマホの画面に、目的地であるホテルの場所を表示していた。桃枝の隣に立ち、山吹も黒法師のスマホを覗き込む。どうやら、前回の監査で使っていたのとは違う宿泊場所らしい。
黒法師は、監査中に職場の中でも迷子になるような男だ。そんな男に『一人でホテルに向かえ』とは、言えない。不可能だと分かり切っているからだ。
となると当然、山吹にとっては嫌な予感しかしない。山吹は慌てて、桃枝の裾を引いた。
「あの、課長? この後、ボクと……」
「あぁ。分かってる」
さすがの桃枝も、山吹の言いたいことが分かっているらしい。ホッと、山吹は安堵する。
しかし──。
「──だから悪い、山吹。コイツをホテルまで送ってくる」
「──えっ?」
山吹の気持ちは、桃枝に伝わっていなかった。
「だって、課長……」
「迎えに行く時間は変えない。だから、お前は準備を──」
「──なに? もしかして、大事な約束?」
会話に割り込んできた黒法師は、笑みを浮かべて桃枝と山吹の顔を交互に見る。訊ねられた山吹は反射的に、口を閉ざした。
……言えない。『誕生日をお祝いしてもらう約束なんです』とは、口が裂けても言いたくなかった。
だが、このままでは黒法師に桃枝の時間が奪われる。それが【人助け】と分かっていても、山吹の心には薄く靄がたなびいた。
しかし、だが、でも。山吹は猛スピードで生まれる言葉たちをまとめられず、桃枝を見た。すぐに、申し訳なさそうな顔をしている桃枝と目が合う。
その瞬間、一際大きな言葉が山吹の胸に生まれた。
──ここで駄々をこねてしまうのは、きっと【いい子】ではない。
桃枝を、これ以上怒らせたくはなかった。迷惑だって、かけたくはない。これ以上、桃枝から愛想を尽かされるようなことをしたくなかった。
それなら、黒法師に返すべき言葉なんて……たった、ひとつ。
「……いえ、なにもありませんよ。だから、どうぞ。お二人共、お気をつけて」
「ごめんな、山吹君。白菊、借りるわ」
「あははっ。変な言い回ししないでくださいよ」
眉を八の字にして笑う黒法師に、山吹は完璧な作り笑いを向ける。それから二人に頭を下げ、山吹はアパートへと向かった。
二人は桃枝の車に乗り、そのままホテルへと向かったのだろう。歩を進めながら、山吹は俯いて……。
「──誕生日を訊いてきたのは、課長のくせに……っ」
いつの間にか、薄かったはずの靄が固形にでもなったかのような錯覚を抱きながら。山吹は胸の中にある汚い感情を、言葉に溶かして吐き出した。
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