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どうやら桃枝は、山吹が起きるのを静かに待っていたらしい。
「とりあえず、お前を送って俺は帰る。半端な仕事があるから、終わらせたいしな」
そう言いながら、桃枝は車を発進させた。
昨日は山吹の誕生日を祝うために仕事を切り上げてくれたのだろう。結果として黒法師に捕まりはしたが、なんにしても仕事が残っているようだ。普段から終業時間の後に時間単位の時が過ぎないと帰らない桃枝としては、残した仕事が気になって仕方がないらしい。
本当は、今日だって一緒にいたい。自分の『甘えたい』という気持ちを自覚した山吹の、素直な欲求だ。
「そう、ですか。ザンネンですけど、仕方ないですね」
しかし、物分かりがいい山吹だって消えたわけではない。しょんぼりと落ち込んでしまったとしても、桃枝の邪魔はしたくなかった。
まさか、山吹が自分との別れを残念がるとは。前を向いた桃枝の表情が、キュッと強張る。
「んッ。……夜、また電話する」
「ホントですか? 嬉しい……っ。じゃあ、待っていますねっ」
「んんッ」
桃枝の悶えに気付かない中、山吹は『早く夜にならないかな』なんて。実に山吹らしくないことを考えてしまう。
……この、数日。きっと【数日】どころではなく、桃枝と交際を始めてからずっと。山吹は自分勝手に身勝手に、桃枝を傷つけてきた。
好意を否定し、自分の価値観を押し付け、何度も振り回して……。申し訳なさに胸が裂けそうな山吹に、桃枝はそれでも笑顔を向けてくれた。
桃枝から沢山の大切なものを貰い、優しさを受けた、と。今の山吹がそう伝えると、きっと桃枝は首を横に振るのだろう。
先に大切なものを与え、優しさを贈ってくれたのは山吹だ。桃枝は世辞や優しさではなく、本心からそう言うに決まっている。
「課長、あのっ」
だから、山吹は伝えたい。まだ山吹は、芽生えた感情を桃枝に伝えていないのだから。
桃枝は黙って、続く言葉を待っている。
伝えろ、伝えろ、言葉にしろ。山吹は意を決し、顔を上げた。
「え、っと。……すっ、す……好き、な、ところで。車、停めてください」
「アパート前でもいいのか?」
「あ、えっと。いつも通り、コンビニの駐車場でお願いします……」
「分かった」
山吹がガクリと心の中で打ちひしがれるも、桃枝は気付いていない。すぐに、目的地のコンビニに辿り着いた。
シートベルトを外し、山吹は車から降りようと身支度を進める。
「送ってくれて、ありがとうございました。えっと……それじゃあ、お気を付けて。お仕事も、ムリしないでくださいね」
「どうも。……じゃあな」
「はい」
車を降り、手を振った。そうすると、桃枝も軽く手を上げて挨拶を返してくれる。
去っていく車を見えなくなるまで見送った後、山吹は上げていた手を下げた。
「ボクは、課長のことが……」
せめて、言葉にする練習をしよう。風に声がさらわれる中、山吹は続く言葉を紡ごうとして……。
「……ダメだ。まだ、言えないや」
顔を赤らめてから、感情の言語化を打ち切った。
もうすぐ、もうすぐ、きっと。舌の根まで出かかっている言葉が外に出るその日を、山吹は胸を高鳴らせながら期待して待つ。
それに、口にすべきなのは【今】ではない。
初めて口にするのなら、桃枝に届く距離で。そう思うと余計、山吹は気恥ずかしさに顔を赤らめてしまった。
7章【過ちて改めざる是を過ちと謂う】 了
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