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 朝食として、山吹は食パンとスクランブルエッグを用意した。  ちなみに、食パンを焼いたのは桃枝だ。『さすがにそれくらいできる』とムキになったので、苦笑しながら任せたのだが……やはり、食パンくらいは焼けるらしい。トースト頼りとは言え、見事な焼き加減だ。  桃枝には、ブラックコーヒーを。自分は水道水を用意し、共に朝食を取る。 「朝から課長と一緒なんて、嬉しいです。それに、職場でも同じ事務所に課長が居ます。恋人と四六時中一緒に居られるなんて、ボクは贅沢な男ですね」 「……。……ッ。……そ、そう、だな……ッ」  素直に好意を伝える山吹が、相当お気に召しているらしい。桃枝は何度も何度も言葉を考え、当たり障りのない相槌を打った。顔を、薄くだが確実に赤く染めながら。  簡単な朝食も、まるで贅沢なメニューに思えてくる。自分の単純さに多少の呆れはあるものの、山吹は今の幸福を噛み締めた。  そうして笑う山吹を見て、桃枝も嬉しいのだろう。不意に、桃枝が山吹に手を伸ばした。 「山吹」 「はい──んむっ」  珍しく、節操もなくキスをしてくるくらいに。  食パンを咀嚼する山吹にキスをして、桃枝は満足そうに頷いた。山吹の顔はポポッと赤く染まり──。 「──うぅ~、苦いぃ~……っ。課長、コーヒーを飲んだ後にキスはイヤです、苦いですぅ~……っ」 「──あぁ、そう言えばそうだったな」  すぐに、涙目へと変わった。  ブラックコーヒーを愛飲している朝の桃枝と山吹は、相性が良くなかったらしい。キス自体は嬉しいものの、残る苦味に耐えられない。山吹は苦さを誤魔化すよう、水を飲む。  そんな山吹の頭を、桃枝が微笑みながら撫でる。 「悪かったよ。次からは気を付ける」  貴重な、桃枝の微笑み。山吹の胸が『キュン』と音を鳴らすのは仕方のない話だろう。  水の入ったコップを両手で持ちながら、山吹はわざとらしく頬を膨らませた。 「も、もうっ。今回だけですからね、まったく」 「チョ──……優しいな、お前は」 「今絶対『チョロい』って言おうとしましたよね?」 「してない、断じて。……たぶん、おそらく」 「嘘を吐くならもう少し分かりにくく吐いてくださいっ!」 「俺は嘘が嫌いだからな。吐けなかった」  しれっとした態度で、桃枝はコーヒーを飲む。そんな姿にまで律儀に胸をときめかせてしまうのだから困ったものだと、山吹は我ながら思う。 「でも、いいです。課長がキス好きだって知れたので、いいですよ。失言は赦します」 「人をキス魔みたいに呼ぶんじゃねぇよ」 「ほぼ合っているじゃないですか」 「……否定は、し切れないが」  コーヒーを啜りながら、桃枝は呟く。 「今後、俺はお前に【俺という男】をどんどん暴かれていくんだろうな。俺も知らなかったような自分を、お前が見つけていくんだと思うと……変な気分だ」  それはつまり【山吹はこれからもっと、桃枝と仲良くなれる】という意味の呟きだろうか。少なくとも、山吹にはそう聞こえた。  だから山吹は、口角を上げてしまう。 「それは……とても、喜ばしいことですね」  はにかむ山吹を見て、桃枝は目を丸くする。それからまた、桃枝は山吹に向けて手を伸ばしたのだが……。コーヒーを飲んだばかりなので、その手は山吹の頭を撫でるだけに終わった。 8章【軋む車輪は油を差される】 了

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