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 帰宅準備を終え、二人はコンビニで食料を調達する。それからすぐに、山吹が暮らすアパートへと移動した。  玄関扉をくぐり、靴を脱いだ後。山吹はいそいそと落ち着きなく、動き始めた。 「上着、お借りしますね。ハンガーに掛けますから……あっ、課長は座っていてください」 「あぁ、悪いな」 「いえいえ。あっ、良ければなにか飲みますか?」 「なら、そうだな。なんでもいいから、なにか頼む」 「分かりましたっ。ちょっと待っていてください」  求められて、尽くせて、嬉しい。まるで犬のように分かり易い。桃枝から上着を受け取った山吹は、まるで背景トーンとして花が使われそうなほど浮かれていた。  すぐさま山吹は桃枝の上着をハンガーに掛け、飲み物の用意を始める。ペットボトルの緑茶は事前に購入済みだ。抜かりはない。  自分の飲み物も用意し、山吹は桃枝の隣に腰を下ろした。 「お待たせしました。お茶、どうぞです」 「どうも──……って、ん? お前、自分にはなにを用意したんだ?」  山吹からコップを受け取った桃枝は、違和感に気付く。嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔をくすぐったが、その匂いは受け取ったコップから香っているわけではないからだ。  山吹が持つマグカップを、桃枝は覗き見る。特段隠す理由もない山吹は、ほんの少しだけマグカップを傾けて『中身を見やすいように』と配慮してから、答えた。 「ブラックコーヒーですけど、課長もこっちの方が良かったですか?」  てっきり、睡眠の妨げになるかと思ったから避けたチョイスだったのだが。やはり桃枝にもコーヒーを用意すべきだったかと、山吹は縮こまる。  桃枝からの指摘をマイナスな方向で山吹が受け取ったと、桃枝はすぐに気付く。すぐに桃枝は、首を緩く横に振った。 「いや、そうじゃなくて。夜はコーヒーを飲まないから茶の方がいいんだが、そういうことでもなくて。……お前って確か、コーヒー苦手だったよな?」 「はい、苦手ですよ。好んで飲む人の気が知れません」 「悪かったな。……じゃなくて。ならなんで今、お前はコーヒーを飲んでるんだ?」 「えっ。そ、それは……」  まさか桃枝が、そんなところに気付くとは。山吹はドキリと動揺しつつ、カップに口を付けた。  チビチビとコーヒーを飲んでみるも、やはり苦い。山吹はまるで苦さによって現状からの逃避でもするかのように、マグカップへ口を付けたまま……。 「──ボクの口が、コーヒー風味だったら。課長、一回キスをしたらやめられなくなるかな、とか。そう、思いまして……」  いっそのこと、そこまで察してほしかったのだが。さすがにそれは、難易度がベリーハードだろう。山吹はズズッと、コーヒーを啜った。  隣で顔を赤らめていた山吹が、コーヒーの苦さに眉を寄せている。一連の言動を全て受け止めた桃枝は不意にコト、と、持っていたコップをテーブルの上に置いた。  それから、空いた手を山吹の両肩に置いて……。 「──山吹、可愛い、好きだ。キスするぞ」 「──ちょっ、待っ! コーヒーこぼれちゃいますからっ! せめてっ、せめてカップはテーブルに置かせてくださいっ!」  ぶつ切りの単語でこれ以上ないほどの愛と萌えを告げられ、山吹は驚く。羞恥心やら幸福感やら達成感やらは当然あるが、それにしたって性急な求めだ。  マグカップをなんとかテーブルの上に避難させつつも、山吹は顔を赤くしながら慌て始めた。

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