260 / 465

8.5 : 3

 山吹がマグカップをテーブルに置くや否や、桃枝が顔を寄せてきた。  まさかこんなに早く、キスをしてもらえるとは。コーヒーに賞賛を送りつつ、山吹は瞳を閉じた。 「課長、んっ」  今までも桃枝とのキスは嫌いではなく、むしろ好ましかったが。正式な両想いとなってからは、以前までと比にならないほどだ。  口腔に舌が差し込まれると、そのまま桃枝は山吹の口内を堪能し始めた。山吹は堪らず、桃枝が着ているスーツにしがみつく。 「お前、本当に可愛いな」 「課長だって、ボクの作戦にまんまと引っ掛かってくれてカワイらしいですよ」 「そいつはどうも。お前には負けるがな」  唇を離し、至近距離で見つめ合う。潤んだ瞳を向けると、桃枝がなぜか目を細めた。 「山吹、舌を出せ」 「えっ、それは……や、やだ。恥ずかしい、です」 「吸ってやる」 「……。……っ」  おずおずと、舌を出す。すると約束通り、桃枝は山吹の舌に吸い付いた。  こんなにも求められて、贅沢すぎるくらい幸せだ。山吹は体を小さく震わせながら、桃枝のキスを受け入れる。  桃枝がここまでコーヒー好きなのは驚きだったが、結果オーライだ。苦手なコーヒーを我慢して飲んだ甲斐があると言うものだろう。唇が再度離れると、山吹はクタリと脱力して桃枝にもたれかかる。 「課長、キス上達しすぎです……っ。ボク、いつかキスだけでイかされちゃいそうですよ、まったくもう」 「んッ。そ、そうか。……ありがとよ」  ブワッと、桃枝から【幸】というオーラが出ている気がした。山吹は顔を上げて、頬を薄く赤らめている桃枝を見つめる。 「ねぇ、課長。今度はボクの舌、噛んでほしいです」 「傷は付けたくねぇから、甘噛みしかしてやれねぇぞ?」 「それでもいいから、噛まれたいです……」 「あぁ、分かった」  もう一度、顔を近付ける。桃枝はすぐに、山吹のオーダーに応えた。  文字通り、貪られているようで。山吹の体が震えてしまう。……だから山吹は、気付かなかった。  唇を離した後、桃枝が険しい表情を浮かべている理由に。 「課長? どうされましたか? もしかして、何度もキスを強請られてイヤだったとか……」 「それはねぇよ、安心しろ。俺が気になったのはそこじゃなくてだな……」  ジッと、桃枝に見つめられる。かなり真剣な眼差しだ。  いったい、どうしたのだろう。山吹は桃枝にもたれかかったまま、不安気に小首を傾げた。  山吹の不安を、一刻も早く解消したい。そう思ったのか、桃枝はすぐに本題を口にした。 「──なぁ、山吹。……お前、やっぱり被虐性愛者なんじゃないのか?」 「──違います」  スパッと、間髪容れずに山吹は答える。  返事を受けた桃枝は「ほう」と呟いた後、山吹に向けておもむろに手を伸ばした。 「おら」 「はうっ。なんれふかぁ?」  黒手袋をはめた桃枝の指が、山吹の頬をむにっと優しく引っ張る。間抜けな顔をしているも、当の山吹は笑顔だ。  フワフワと嬉しそうなオーラを出す山吹を眺めてから、桃枝は山吹と向き合った。 「──お前、被虐性愛者だよな?」 「──違います」  手を離した桃枝に問われても、山吹の答えは変わらない。キリッとした表情を浮かべて、山吹は問いに即答した。  もう一度「ほう」と呟いた後、桃枝は山吹に手を伸ばす。 「ほら」 「ひゃあっ。なんですか、乱暴ですよっ」  乱暴に、グリグリと頭を撫でる。強引に髪形を乱されても、山吹は笑顔だ。  パッと手を放し、桃枝は思考する。どれだけ考えても同じ疑問にしか辿り着かなかったのか、桃枝は口を開いた。 「……お前、被虐──」 「──好きな人に触られたら嬉しいじゃないですか!」  ペチンと、山吹は桃枝の手を叩く。無論、照れ隠しだ。 「課長の、鈍感。こんな恥ずかしいこと、わざわざ言わせないでください。バカ、課長のバカ、にぶちん……っ」  今の山吹が上機嫌なのは、なにも手荒に扱われたからではない。確かに『舌を噛んでほしい』と強請りはしたが、それは文字通りに貪られたかったからだ。桃枝に、深く深く求められたかっただけ。  プリプリと怒り始めた山吹を見て、手を叩かれた桃枝は絶句する。  ……絶句、していたのだが。 「──山吹、好きだ。猛烈に可愛い、愛おしい、愛してる」 「──痛いです痛いですなんですかなんですかっ!」  溢れた感情を単調な言葉で訴えながら、山吹の手を握り始めた。それはもう、痛いほどに強く。

ともだちにシェアしよう!