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せっかくのデートだと言うのに、今日は朝からツイていない。山吹は電車に揺られながら、青白い顔で考える。
後ろは短く切り揃えている髪が一部分だけうまくまとまらなかったり、朝食に食パンを食べていただけなのに舌を噛んでしまったり。なんだか、妙にツイていない気がしてならない。
車内が思っていたよりも混んでいるのも、天気が絶妙に曇っているのも。なにもかもが、微妙にアンラッキーだ。
それでも山吹は、これから桃枝に会えるのだと思うだけで元気が出た。やはり電車は気が滅入って仕方がないが、それでも無事にマンションへと辿り着けば桃枝が抱き締めてくれる。山吹は青い顔のまま、必死に耐えた。
そうしてようやく、目的地。山吹は急いで電車から降り、必死に深呼吸をした。
「先ずは、買い物を済ませて……。……ダメだ、その前に休憩しよう」
今の山吹に、変なところなんてないはず。後ろ髪が若干跳ねているが、それは本当に若干だ。気になるのは山吹本人くらいだろう。
それなのに、車内に詰められた他人が恐ろしくて仕方がない。幼少の頃に傷だらけの母親と電車に乗った記憶が、どうしても忘れられなかった。
ヒソヒソと小声で言葉を交わし、チラチラと視線を向けられて。むしろどうして母親は平然としていられたのか、不思議でならない。
車内で話し声が聞こえただけで、体が震えてしまう。咳払いや、他人の些細な視線移動さえ気になって仕方がない。……そんな自分が情けないから、山吹は自己嫌悪に陥った。
「これは、素直に言うべきなのかな……」
苦しかった、と。桃枝には、素直な感想を告げるべきなのか。それとも、桃枝が嫌う【嘘】を吐いた方が平和的なのか、山吹には分からなかった。
「……褒めて、くれるかな」
空いていた椅子に座りながら、山吹は瞳を閉じる。『電車で向かう』と言った手前『苦しかった』と言うのは情けないが、それでも桃枝には褒められたい。
きっと、山吹は無意識のうちに口角を上げていたのだろう。今朝からのアンラッキーな自分が霞むほど、自己中心的な妄想を作り上げて悦に入っていたに違いない。
……だから、山吹は失念していたのだ。
「──よっ、山吹っ。ただ椅子に座ってるだけのくせに、随分と楽しそうじゃん?」
「──ッ!」
──今日の自分が、ツイていないということを。
すぐに山吹は、閉じていたまぶたを開く。そして、声の主が意外にも近くにいたと認識し……。
「青梅 ……ッ?」
相手の名を、口にした。
明るい髪色は見慣れないが、センター分けされた前髪には覚えがある。軽薄そうな笑みも、シャツを着ているくせに上のボタンを全く機能させていない着こなしも、見覚えがあった。
だが、重要なのは【相手の変化】ではない。学生の頃は一個しか開いていなかったはずのピアスが、いつの間にか両耳にバチバチと三個ずつ開けられているが、そんな変化だってどうでもいい。
どうして、なぜ。なんで、青梅がここに。山吹は椅子に座ったまま、目の前に立つ男を見上げながらそっと警戒を示す。
「『楽しそう』って、なにが。オマエの人生と比べてるならドヤ顔で『まぁね』とか言って一蹴するけど」
「アンタって本当に可愛くないよな」
「オマエにどう思われたって、蚊からの評価と同じくらいどうでもいい」
ツイていない、なんて。そんな言葉で括れるような相手では、ない。
これは、本格的に危険だ。電車でのストレスなんて忘れてしまいそうになるほど、山吹は表情を険しくしてしまった。
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