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 不意に、山吹は考えてしまった。  桃枝のそばにいたいと常々思っているが、プライベート時間を圧迫するのはやはり過剰なのではないか。黙って座っていると、山吹の心には徐々に不安が押し寄せてきた。  しかしすぐに、山吹は寄せてくる不安を一蹴する。きっと桃枝に伝えたら『そんなことはない』と言ってくれるはずだ、と。  ……だが、逆の立場ならどうだろう。仕事を持ち帰るほど忙しい中、恋人に『会いたい』と言われたら。山吹は……。 「……ヤッパリ嬉しい、かな」 「なにがだ?」  思わず漏れ出た呟きは、隣に座る桃枝に当然ながら伝わる。山吹は慌てて顔を上げて、両手をブンブンと左右に振り始めた。 「あっ、いやっ! 独り言ですっ!」 「嬉しいことなんだろ。共有してくれてもいいんじゃねぇか?」 「盗み聞きなんてハレンチですよっ!」 「勝手に呟いたんだろ」  手を動かしながら、それでいて目線を送られることもないが、桃枝が山吹に返事をしてくれている。  山吹は独り言として本音を呟いてしまった自分自身に恥じらいつつ、赤くなった顔を俯かせた。 「これが、逆の立場だったら。ボクが忙しいときに、課長から『会いたい』って言われたら。ボクは、嬉しいなって……そう、思って」 「っ。……そ、そういう意味か」  ガサッ、と。一度だけ、桃枝の手が書類を払いのけてしまった。  すぐに桃枝は書類を手繰り寄せて、数回だけ素早く呼吸をして、言葉を返す。 「なら、俺と同じだな」  そこで、山吹は気付いた。散らばった書類をまとめる桃枝の手が、やけに丁寧だということに。  なぜだか、ただ【まとめている】と言うよりは【整えている】ように見えて……。 「課長? お仕事、終わったんですか?」  つまり要約すると、桃枝の手は書類の【片付け】を始めているのだ。  小首を傾げる山吹には目線を送らず、桃枝は重ねた書類を立てた後、テーブルにトントンと当て始める。 「違う、やめたんだ。月曜の夕方までにポスト投函すればいいだけの話だからな。月曜にやる」 「でも、わざわざ持って帰ってきたのは月曜日が忙しいからなんじゃ──」 「なら言い換える。作業に飽きた」  絶対に嘘だ。桃枝はそんなタイプの人間ではない。  だが、桃枝は嘘を嫌う。となれば、今の発言は嘘ではないのかもしれない。ちょっとした疑心暗鬼に陥りつつ、山吹はおずおずと桃枝の顔を見た。 「気を、遣わせてしまいましたか? ボクが、隣にいるせいで……」  不安気な山吹に対する桃枝からの返事は、すぐだ。 「お前が隣にいるおかげで、休日に仕事をする愚かしさに気付いた。だから、お前のおかげだ。ありがとな」  微笑みと、頭を撫でる手。言葉だけではなく行動で、桃枝は山吹に感謝を伝えた。 「っつぅか、今のご時世になんで企業アンケートにアナログ回答しなきゃならねぇんだよ。メールでやらせろ、メールで。しかもこれ、強制回答じゃないって謳ってるくせに回答しなかったら電話で催促がくるんだぞ? 意味分かんねぇだろ」  ブツブツと文句を言い始める桃枝は、珍しい。山吹の頭を撫でる手が多少乱暴になったのは書類に対する文句が所以なのか、それとも照れ隠しか。  ……だが、山吹にとってはどちらでも良かった。 「どうせ催促の有無関係なく、課長はきっちりやり遂げちゃうくせに」 「随分と俺は、お前の中で仕事熱心な馬鹿真面目野郎に見えているんだな」 「事実ですからね──って、ひゃあっ! 頭をグリグリしないでくださいよ~っ!」  桃枝が『せい』ではなく『おかげ』と言ってくれたのが、嬉しいから。山吹はわざと調子に乗って、フフッと笑ってみせた。

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