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驚いた拍子に握った合鍵は、思っていたよりもずっと小さい。
「……えっ?」
それはもう、山吹が今しがた零した呟きと同じくらいだ。
顔を上げた山吹は、目の前に座る桃枝を見る。すると桃枝は、まるで『待っていました』とばかりに言葉を連ね始めた。
「金のことなら、お前が納得できる方法を提案してくれ。月払いで俺に返すでもいいし、他の方法でもいい。俺はお前の気持ちを尊重したいし、こんなことのせいでお前との関係に不和が生じるのは御免蒙る」
「課長、あの……?」
「それと、なんつった? 『一緒に過ごす時間が増えて愛想を尽かすかもしれない』だって? 馬鹿言うなよ。それはつまり、俺の知らないお前がまだいるってことだろ。だったらそれを全部、俺に見せてくれよ。俺がどれだけお前の全部を知りたがってるのか、誰よりもお前が一番知ってるだろうが」
「えっ? あ、あのっ、つまり……?」
桃枝は険しい表情を浮かべて、一度「だから、つまりだな」と前置きをする。
そしてすぐに、桃枝は結論を口にした。
「──『デートが終わる度にお前をアパートに帰すのが虚しいから、黙って俺の我が儘に付き合え』って話だ」
言うや否や、桃枝の顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「なにが悲しくて、惚れた相手を自分の意思で手放さなくちゃならねぇんだよ。お前はずっと、俺と一緒に居てくれよ」
「あ、えっと、そのっ」
「これで分かっただろ。つまり、この誘いは【お前のため】みたいな顔をしてるくせに、その実は【俺のため】だ。……あのな、緋花? ここまで言わなくても、お前なら察せられるだろ。お前は俺専用の翻訳機なんだから」
「う、あっ、うぅ……っ」
つられて、山吹の顔も徐々に赤くなってしまう。
この男は、どうしてこんなにも。赤い顔のまま、山吹はなにも言えずに口を開けて、ただただ静止してしまう。
押し寄せていた不安も、怯えも。桃枝の主張を聴いて『あ、そうですか』と言いたげな顔で唖然とし、山吹への突進をやめてしまうほどだ。
「こっちの主張は以上だが、他に意見はあるか」
ハッとした山吹は、赤い顔をそのままに首を横に振る。
「なっ、ない、ですっ。全部、消えちゃいました」
「そうか。なら、受け取ってくれるってことでいいんだな?」
反射的に握ってしまった合鍵の存在を思い出し、山吹は言葉を詰まらせた。
うまく、言いたい言葉がまとまらない。なぜなら山吹は今、言い様の無い感情の処理でいっぱいいっぱいなのだから。
桃枝が、我が儘を言ってくれた。桃枝が、子供じみた独占欲を見せてくれたのだ。桃枝が、桃枝が……。ただ『好き』と言われる以上に強烈な【好き】を浴びせられて、山吹はパニック寸前だ。
それでも、なにかを言わなくては。山吹はあちこちに散らばった言葉たちを必死にかき集めて、それから文章として言葉たちを縫い始めた。
「あのですね、課長。悲しいことも、つらいことも……受けた恩ですら、時間が経てば人は忘れてしまいます。過ぎてしまえば、忘れてしまうみたいなんです」
「山吹?」
「だけど。ボクはずっと、両親のことは忘れられません。悲しかったことも、つらかったこともいっぱいですけど……でも、幸せだったこともあったから。だからボクは、忘れないと思います」
「……そう、だろうな」
相槌を打つ桃枝を見るために、顔を上げる。目の前にいる桃枝は『要領を得ない』と言いたげな顔をしていたが、それでも山吹は桃枝を見つめた。
一度だけ、深呼吸をして。それから、山吹は──。
「そして、課長が優しくしてくれたことも。課長からいただいたものは全て、忘れません。これからも、ずっと。だから……!」
今度こそ自らの意志で、合鍵を強く握った。
「──ボクも、課長と一緒にいたいです! 課長と一緒に、暮らしたいですっ! だからこちらの合鍵は、謹んで頂戴いたしますっ!」
深々と、それはもう深く深く、山吹は頭を下げる。『絶対に放してなるものか』と言いたげなほど強く、合鍵を握り締めながら。
そんな必死過ぎる山吹の様子を見て、桃枝はと言うと。
「ふっ、ハハッ! なんだよ『謹んで』って! お前らしくないぞっ?」
無邪気に、大きな声を上げて、笑っていた。
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