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鼻をすすり、泣き出した山吹を見て。当然、桃枝は驚愕した。
「山吹、なんで……っ。別に俺は、お前を嫌ったとかそういうわけじゃなくて……」
山吹を傷つけたくなかったから、腹を割って話したというのに。
ただ数日、セックスをしなかっただけ。それなのにどうして今、山吹は泣いているのだろう。
上体を起こし、桃枝は山吹の顔を覗き込む。そうするとすぐに、静かに泣き出した山吹と目が合った。
「メーワク、かけたからっ。だからちゃんと、ガマンしなくちゃいけないのに……っ」
「山吹? お前、そんなにセックスしたかったのか?」
訊ねると、山吹は俯いてしまう。
まさか、山吹はセックス依存症なのか。瞬時に浮かんだ、疑いは──。
「白菊さんを、一番独占できるのはセックスだから。白菊さんとセックスして、ボクだけの白菊さんにしたいんです……」
「……えっ?」
一瞬にして、消し飛んだ。
「──他の人に、優しくしないでください……っ。不安なんです、怖いんです。ボク、いい子じゃないから……誰かに、負けちゃう……っ」
違う。山吹が抱えているのは、セックスができないことへのフラストレーションではない。
山吹が抱えているのは、もっともっと、根本的な部分のことなのだ。
なぜか山吹は、桃枝に嫌われてしまう可能性に──もっと言うのなら、桃枝が山吹以外の誰かを好きになる可能性に怯え始めている。
誰かと密会をした覚えもなければ、誰かと必要以上に親しくした覚えもない。桃枝からすると、山吹の不安がどこから生まれたのかが全く分からなかった。
「なにを、言って……? 俺はお前のことだけが──」
山吹の言葉を否定しようとした、その瞬間。
「──明日も同じとは限らないじゃないですか……っ!」
ようやく、桃枝は気付いた。
山吹が抱える不安は、今に始まったことではない。
『昨日は、そうだったとしても。今日も同じとは、限らないじゃないですか』
不安、なのだ。山吹は、いつも……。
昨日までは幸せで、それが今日も明日も続くことはない。それを、身をもって知っているから。
言葉を失う桃枝に乗りかかったまま、山吹は乱暴な手つきで目をこすりながら、抱えている【不安】を紡ぎ始めた。
「課長、いつも文書の作成をボクじゃない人に頼みます。ボクはあまり、仕事が早い方ではないですし、出来も要領もいい男じゃないです。だから、課長の選択は適材適所だと思います」
「は? 文書の、作成? いきなり、なんの話だ?」
「だけど、課長が自ら進んで他の人に頼るのを見ると……根拠も理屈も、全部分かっていても。進んでじゃなくても、誰かから差し伸べられた手を取って頼っていると……悔しくて、寂しいんです」
「……緋花?」
目をこする両手を、ギュッと握っている。どこか、痛々しい姿だ。
「少しずつ、管理課の人たちは課長の魅力に──優しさや良さに、気付いています。だから、仕事関係なく課長に雑談を振る人が増えているのは分かります。ホントの課長は、とても素敵で接しやすい人ですから」
「雑談? 今度はお前、なんの話をしているんだ?」
「周りが課長の良さに気付くと同時に、課長が周りの人の良さにもっともっと気付いてしまったらと思うと、怖いです。お茶をくれるとか、そういう【お仕事が関係ない話】を振る人が増えて、課長が他の人の優しさに心を揺らがせてしまったら、ボクは、ボクは……っ」
「……っ?」
言葉が、挟めない。なにを言われているのか、ピンとこないからだ。
桃枝の理解を置き去りにしているという自覚があるのか、ないのか。山吹は静かに涙を流しながら、ようやく──。
「──それに、ボク……課長と恋人同士になってから、ただの一度も【課長から】誘ってもらったことがありません……っ」
「──っ!」
ようやく、桃枝にも理解ができる言葉を告げた。
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