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時刻は、深夜。就寝以外にすることがないはずの桃枝が、隣にいない。
『目が覚めたら、あの人はもう隣にいないかもね』
咄嗟に山吹は、夢の中で山吹を笑った影の言葉を思い出した。
「ヤダ、どこ。ヤダ、や……し、白菊さん? 白菊さん、どこですか……?」
桃枝が、山吹を置いてどこかに行くものか。なぜならここは二人の寝室で、ここは二人の部屋なのだ。
きっと、トイレに行っているのだろう。それか、喉が渇いたのか……。山吹はそう思い、一先ずリビングへ向かおうとした。
だが、動揺は足にまで伝わっていたらしい。
「──わっ!」
山吹は足を滑らせ、ベッドから落ちてしまった。
受け身のひとつも取れないまま、山吹は額を床にぶつける。ジンジンと痛む額が、まるで『隣に桃枝がいないこの状況は現実だ』と訴えているようで……。
「しらぎく、さ……っ」
歩いて、リビングに行けばいい。そこに桃枝がいないのなら、今度はトイレに向かえばいいだけ。たった、それだけ。それっぽっちで解決する話だ。
──だがもしも、どこにも桃枝がいなかったら? ありもしない可能性未満の不安が、山吹を襲う。
額の痛みに誘発されるように、山吹はその場で蹲り、瞳から雫を零す。
「白菊さん、白菊さん……」
情けなく、か細い声を漏らした。……その時だ。
「──山吹? どうした?」
電気が付き、部屋が明るくなったのは。山吹が顔を上げると、そこには声の主──桃枝がいた。
「しら、ぎくさん……?」
「なんだ、ベッドから落ちたのか? 怪我はないか?」
桃枝は山吹に近付くとすぐにしゃがみ込み、目線を合わせてくれる。
「額が、赤いな。ぶつけたのか」
少し冷えた指先が、山吹の額を撫でた。その体温は、感触は、確かに桃枝のものだ。
山吹はカタカタと体を震わせながら、ポツリポツリと言葉を零す。
「怖い夢を、見てしまって。それで、起きたら隣に白菊さんがいなくて……っ。こ、怖くて、ボク……」
拙い説明でも、桃枝はある程度の状況を理解してくれたらしい。「そうか」と相槌を打った後、涙を流す山吹の頭を優しく撫でた。
「悪かった。少し、喉が渇いたから水を飲みに行っていた」
「……っ」
「大丈夫だ、緋花。俺はどこにも行かないから、そんな顔するな」
額を撫でていた手が動き、山吹は桃枝に抱き締められる。咄嗟に『どうすればいいのか』が分からず、山吹はビクリと体を震わせるしかできなかった。
だが、ここにいるのは確かに桃枝だ。抱き着き返しても、怒号は飛んでこない。山吹は恐る恐る、桃枝の背に腕を回した。
「大丈夫だぞ、緋花。大丈夫だ」
あやすような優しい声が降り注ぎ、山吹の呼吸は少しずつ落ち着いていく。
それでも、心臓は騒がしいままだ。生まれた【不安】が、未だに山吹の心の中にのさばっている。
だから山吹は、桃枝に縋ってしまった。
「白菊さん、お願いがあります。聞いて、いただけますか?」
「あぁ、なんでも言え。どうした」
考えたくないことを、なにも考えられなくなる唯一の方法。
「──今すぐボクを、抱いてください」
不安の飼い慣らし方なんて、山吹はこれしか知らないのだ。
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