1 / 8

第1話 食べるのはおそくない

 高次元幾何魔法師のジェイルが食堂のテーブルで紙ナプキンを折りはじめるとすぐに人がたかってくる。ジェイルは俺が飯を食い始めたころにやってきて、黙って俺の前に座る。ウエイターに俺とおなじものを注文して、紙ナプキンを広げる。おれは「よう」という。ジェイルの頭がちょっとだけ傾く。これがジェイルの返事だ。それが元に戻った時にはもう、紙ナプキンが変化しはじめている。  俺の仕事は朝が早くて終わるのも早い。だから食堂の夕食がはじまった瞬間に注文してささっと食って寮に帰りたい。でも目の前にはジェイルがいるし、ジェイルの長い指は確信をもって紙ナプキンを畳んだり裏返したりしている。俺が飯を食べるのも忘れてみていると、ジェイルの澄んだ目がちらっとあがって、また伏せられる。  ぺらぺらした紙ナプキンが細長い胴体になるまでほんの二、三分。ジェイルがふっと息をかけると、それはテーブルの上でぶるんと体を震わせる。つやつやした濃茶の毛皮があるカワウソ、一丁あがりだ。平面を折り畳んで物体を作り出す即席の幾何魔法、俗っぽくいえば折り紙魔法というやつだ。 「生きてるみたい」 「すごい」  ギャラリーから声があがってもジェイルの顔つきは変わらない。手のひらサイズのカワウソはテーブルに飛び降りると、すばやい動きで俺の方にやってきて、あっと思った時は腕をのぼり、左肩にとまったと思ったら俺の視界から消えた。あははは、とギャラリーのやつらが笑った。 「ナギ、可愛いよ~」 「似てるよ、親子みたい」 「もう、なんだよ」  俺は首を振る。カワウソがひゅん、と俺の頭から飛び降りてジェイルの手に戻った。ウエイターが定食のトレイをもってギャラリーをかきわけるようにやってきたとたん、カワウソは紙ナプキンに戻り、テーブルの上にお行儀よく着地する。ウエイターがじろっとみるとギャラリーはそそくさと去った。  毎日のことなので今じゃあいつらもジェイルの魔法にすっかり慣れているし、ジェイルはいつも大人気だ。でもふつうの魔法師は下っ端が集まる食堂になんて来ないから、あいつらはジェイルがこの魔法生産複合体の中でもめちゃくちゃすごい魔法師だって知らないのかも。  実際は魔法生産複合体の中でも幾何魔法はとても難しいものらしく、これに「高次元」とつく魔法はその何乗倍もすごいやつなのだ。といっても俺はただの花屋だから、具体的なすごさってわからないんだけど、ようするにジェイルは普通の幾何魔法師にはできないことがやれて、この魔法生産複合体の中でもいちばんすごい一握りの魔法師のひとりってこと。  俺は飯を食べ終えて水を飲む。 「あのさ、おまえの折り紙、なんでいっつも俺の頭に乗るの」 「さあ」ジェイルは俺をちらっとみて、すぐ目をそらした。 「好きなんじゃないか」 「は?」 「ナギは好かれやすい」 「なにいってんの。それはおまえの方だろ」  ジェイルは俺をじろっとみたけど、何もいわずに飯を食いはじめた。ま、これは定番の会話っていうか、あいさつみたいなものだから。  ジェイルがなんで俺みたいな花屋のところに来るのかは、わかるといえばわかるけど、わからないといえばわからない。花屋は魔法生産複合体では最底辺の業者で、たいていの魔法師が気にするような対象じゃない。ただ俺はジェイルとガキのころからの知りあいなんだ。なんでかっていうと、同じ孤児院の出身だから。  といっても一緒に孤児院にいたのは六歳までだった。ジェイルはそのころから才能の片鱗をみせていて、どこか立派な家の養子になった。六歳のときから大人みたいな折り紙ができた。もちろん当時は幾何魔法じゃなくて、孤児院の学級で教わるただの折り紙だけど。俺はしわくちゃになっちゃうのにジェイルはたいていきれいに作れた。ガキの頃の俺の記憶ははっきりしないんだけど、今思うとあのころからジェイルの才能は明らかだった。  六歳でジェイルが養子にもらわれて孤児院を出たあとも、俺はずっと同じところで育ったけど、十五歳のときなぜか再会した。なんと奨学金で進学した学校の寮で同室になったんだ。本当にびっくりしたけど、ジェイルはその時もう三年生だった。同室になったのは上の配慮があったのかもしれない。孤児院枠で入学した生徒は寮で大変だとか、そんな噂も聞いていたけど、俺はぜんぜん楽勝だった。というのもジェイルは飛び級入学で学校から魔法生産複合体に通っていて、寮でいちばん偉かったから、誰も同室の俺にへんなちょっかいをかけてこなかったからだ。  ようするにジェイルは天才枠だった。それに俺とちがって背も高くて男前だから、学校じゃ他の生徒から神様みたいな扱いだった。そんなやつだからこそ、六歳まで一緒の施設にいただけのチビを覚えていられるんだよな。  もっとも俺とジェイルが寮で一緒だったのは一年だけ。そのあとジェイルは魔法生産複合体に研究者として正規採用され、俺は二年後ふつうに学校を卒業して就職した。この魔法生産複合体の中の事業所に転勤になったのは一年前で、十年ぶりにまたもジェイルに再会したからほんとにびっくりした。ジェイルは高次元幾何魔法部の教授だった。なんでも史上最年少らしい。  というわけで、俺とジェイルはガキのころたまたま同じところで暮らしていただけで、共通点なんてまったくないんだ。下請け業者である花屋の下っ端はけっこうな重労働で、休みも少ないし朝も早くて夜遊びもろくにできないくらい給料も安い。  下請けとか下っ端の「下」は、この魔法生産複合体では文字通りの言葉だ。魔法師はてっぺんの透明な堅い泡の中に住んでて、研究室もそこにある。職員は真ん中あたりのガラスと鉄の建物に住んでる。俺たちがいるのは地面の上だ。雨がたくさん降るとすぐ洪水になるけど、魔法に使う花は土の上じゃないと育たない。  ここでジェイルに再会したのは最初の配達に行ったときだ。この魔法生産複合体にはずっと花弁魔法の研究室がなかったから、花が必要なときは遠くの事業所から取り寄せていた。ところが花弁魔法研究科ができることに決まって、専任の花弁魔法師も来ることになったから、ここにも花屋が必要だってことになって、事業所を作ったらしい。俺には名指しで転勤命令が来たけど、どうせ寮住まいだからべつにかまわなかった。実家もないし、どこに住んでも同じだ。  転勤直後は花弁魔法師もいなかったから、花の注文はあまりないだろうって思っていたけど甘かった。花弁魔法って他の魔法の下位分類で、上位分類の魔法の最初の段階でやんなきゃいけないときがあるんだと。上級職の魔法師は下位分類の魔法もそれなりに使えるから、花弁魔法師がいないときは自分でやるらしい。一日目から思ったより注文があった。ジェイルの研究室からも発注が来て、それで配達に行ったら会ったというわけ。  十年ぶりのジェイルは学生時代よりイケてる感じですごそうなオーラを出していて、十年会ってなくてもすぐにわかった。実をいうと俺のことなんか忘れたんじゃないかって思ってた。ところがジェイルは俺をみたとたん「ナギ」って呼んで、俺の心臓はひっくりかえりそうになったけど、いったん話しはじめると、十五歳のときとあまり変わらなかった。  その配達で最後だったから、俺はそのあと飯を食って寮に帰るつもりだった。ジェイルがどこに行くのかというから、寮の近くの食堂を教えた。で、ひとりで飯を食っていたらジェイルが来て、俺の前に座った。  転勤したばかりのころ、俺はこの魔法生産複合体では、上に住んでる魔法師が下っ端業者の食堂までやってくるのがめちゃくちゃ特別なことだとは知らなかった。転勤前の事業所でも魔法師との接点はあまりなかったけど、ここほど居場所に上下はなかったんだ。  でもここじゃたしかに、上下の移動はめんどうくさい。配達も大変なのだ。途中からリフトはあるけど、そこまで階段や坂道をえんえん登らなくちゃいけない。それに下は土まみれだからね。上の泡にいる魔法師が降りるのを嫌がるのはわかる。  それなのにジェイルはやってきたんだ。  それから仕事のある日はほぼ毎日、俺はジェイルと飯を食っている。というか俺が食堂で飯を食ってるとジェイルがやってくるので、自然にそうなる。飯を待つあいだジェイルは折り紙して、飯が来たらゆっくり食べる。  ジェイルは食べるのがおそい。俺はあいつの折り紙で遊んだり適当な話をしたりして、ジェイルが飯を食い終わるまでつきあう。それから一緒に食堂を出て、俺は自分の部屋に、ジェイルは泡の中の研究室に帰る。それだけだ。向かいあって話すだけ。  いくら幼馴染の友達に再会したからってどうして毎日飯を食いに来るのかな? と思うこともあった。俺が休みの日にどうしてるのかは知らないけど、ほんとに毎日来るんだ。  でも、俺がジェイルの研究室まで配達に行ったのは再会した日だけで、そのあとは、あいつが食堂に来なければそれきり会わなかったかもしれないから――そして俺もジェイルに会うと嬉しいから、俺としてはこれでいいんだけど。  いや、ほんとのことをいうと「これでいい」なんてもんじゃない。ほんとは――こうやってむかいあって、ちょっと話をする時間は、俺にとってはすごくぜいたくな時間だ。  というのも、学校の寮で同室だったころ、俺はほんとにジェイルが好きだったから。  ジェイルは俺の初恋だったんだ。本人にはいわなかったけど。  あの一年は楽しかった。でもちょっとつらかった。ジェイルは俺とちがって魔法師予備軍で、しかも飛び級していて、すぐまた遠いところへ行ってしまうとわかっていたから。六歳であいつだけもらわれていったみたいに、俺にはついていけないところにさ。  それに俺は男だし、ジェイルが男を好きなのかもわからなかった。もちろん世の中じゃ、好きになるのが男か女かってことより、魔法師みたいに上に住める人間と花屋みたいに下に住むしかない人間の差の方が大事で、男か女かは二の次だ。結婚は同性でも異性でもできるしね。  でも、ジェイルが男なんてお呼びじゃないってはっきりわかってしまったら、俺にとってはやっぱりめちゃくちゃダメージが大きいだろ?   ジェイルと一年同じ部屋にいてもそういうのぜんぜんわからなかったんだけど、もし俺がうっかり、告白とかそういうことしてしまったら、友だちでもいられないかもしれない。いくら俺とジェイルがガキの頃、同じ孤児院にいたとしても。  だから黙っていた。  俺だってそのあと何もなかったわけじゃない。ただ、俺は簡単に人を好きになれるタイプじゃなかったし、長く続く相手には出会えなかった。周囲になじむのは得意だけど、心からの友達って感じる人はめったにいない。この食堂にも顔なじみがたくさんいるけど、一緒に夜遊びに行くような友達はいない。遊びで誰かと仲良くなれるほど生活に余裕がないというのもある。  だからいま、ジェイルと仲のいい友だちみたいに話ができるのは、ほんとうにぜいたくなことだった。俺たち、天と地ほど遠い立場なのにさ。  ジェイルは四分の三くらい飯を食い終わってる。俺は空になった食器を重ねる。  いつもならこのあと食堂の外に出て、反対方向に別れてまた明日なって感じになる。口に出してはいわないけど、ジェイルが俺をみて、俺はうなずいて、ちょっとだけ手を振ったりして、それぞれの方向に行く。  前にいちど、何メートルか歩いてからふりむいてみたことがある。深い意味はなかった。なんとなく、ジェイルを見たかったんだ。そしたらジェイルも俺をふりむいていた。ふたりしてあれ? という顔になってさ、また手を振ったりして、からだの内側をほんわり暖かくしたまま家に帰るんだ。  今の俺にはそれで十分だった。十五のとき、ほんの一瞬、ジェイルに告白しようかと思ったことも――ないわけじゃないけど、今にして思うと何もなくてよかった。もしそんなことしてたら、今ごろこんなふうに飯食ったりできなかったかもしれない。  ただ今日はちょっとだけちがった。  というか、俺がちがうことをしなきゃいけなかった。ほんとうはこんなことしたくないけど、俺のあたまじゃ他に何も思いつけなかった。  俺はジェイルの方へ体をかたむけ、声をひくめる。 「あのさ、ジェイル、ちょっと歩かないか?」  ジェイルの切れ長の目が真正面から俺をみた。みょうに真剣な目つきで、ちょっとだけ俺は見惚れた。  俺がジェイルに見惚れるのはよくあることだ。十五歳で再会した時も、ここで再会した時もおなじようにどきっとした。ジェイルはひたいが高くて眉がしゅっと勇ましくて、鼻筋がきれいに通ってる。顎はほんのすこし張りぎみだが、それが威厳と強さを与えている。  六歳のときはなんとも思わなかったけど、十五で再会したときジェイルのことが好きになったのは、ひとつは顔のせいだ。一年前に再会した時もおなじことを思った。俺、こいつの顔が好きだなって。  俺だって見てくれは悪い部類じゃないと思うんだが、背が低いし、なんていうのか勢いがない顔なんだ。きっとそのせいで甘く見られやすい。  俺はささっと周りをみた。誰も注意を払っていないのをたしかめて、急いでつけくわえる。 「話したいことっていうか……頼みたいことがあるんだ。すぐおわるけど、ここじゃ人が多いから」  ジェイルは黙ってうなずいた。そしてすごい勢いで皿の残りを片づけにかかったから、俺は喉つまらせないかって一瞬心配したけどそんなこともなかった。こいつ、食べるのがおそいわけじゃなかったのか。

ともだちにシェアしよう!