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第1話

 ふと気づくと、そこは乾いた世界だった。  テラコッタ色の壁、床は砂の色。壁に掛かったタペストリーは刺繍と織り模様で、狩りの様子が描かれているようだ。大きく開いた窓の向こうは、高く晴れわたったラベンダー色の空。その空の下、遠くに霞むのは。 「砂漠……」  僕はぼんやりとつぶやいた。僕が座っているのは、木の椅子だった。滑らかに削り出された座面は柔らかくはなかったが、身体にフィットして、とても座り心地がいい。僕はその椅子に座り、しばしの間、うたた寝をしていたようだ。 「カイ……?」  小さな可愛らしい声がした。僕ははっとして、膝に触れてくるぬくもりに気づく。 「カイ、どうしたの?」  少し舌足らずな可愛い声の主は、小さな子供だった。艶やかな黒髪と大きく真っ黒な瞳が印象的な子供は、小さな手で僕の膝をそっと撫でている。 「カイ?」  カイ……そう呼ばれて、僕は無意識のうちに子供を抱き上げて、膝の上に抱いた。 「なんでもないよ、ローリー」  ふっと口をついたその名前。 〝そう……この子はローリーだ……〟  もうじき三歳になる僕の可愛い息子。この子は僕が産んだ、僕の子だ。 〝僕が……産んだ子……?〟  僕は目を大きく見開いて、もう一度自分の頭の中を探る。 「僕が……産んだ子……」  僕はどうやって、この子を産んだのだろう。  いや、それよりも、僕はいったいどうやって、誰の子を……妊娠したのだろう。  そして。 「ここは……」  遠くに霞む地平線。そこは赤い砂が舞い上がる砂漠だ。 乾いた風に頬を撫でられながら、僕は記憶を巻き戻す。  ここはどこだ。  僕は……誰だ。 ACT 1  緑の風が吹く。この庭に吹く風は、いつも緑の匂いがする。  個人の所有とは思えないほど広い庭は、ほとんど植物園の趣だった。 「佳以(かい)、どこだ」  よく響く低い声は、祖父だ。庭に繁るさまざまな植物の間にしゃがみ込んでいた野々宮(ののみや)佳以は、ゆっくりと立ち上がった。 「ここだよ、お祖父様」  可愛らしいピンク色の花を両手いっぱいに摘んで、佳以は緑の海を泳ぐ。 「ゲンノショウコか」  白衣姿の祖父が笑う。  医師一人、看護師二人、事務員二人の『野々宮医院』は、レトロな木造建築の可愛らしい診療所だ。その診療所の後ろに繋がる形で、祖父と佳以が住んでいる母屋がある。 「いっぱい花が咲いちゃった。咲く前に採取しようと思ってたんだけど」  佳以はそう言って微笑んだ。透き通るような白い肌とほっそりとした華奢な体格のせいで、青年というよりも、どこか少女のような風情がある。まぶしげに細めた瞳は明るい栗色で、陽に透ける艶やかな栗色の髪と同じ色だ。精緻に形作られたきれいな顔立ちは、その大きな瞳と全体的に色素が薄いせいもあるのか、どこか日本人離れした美しさである。 「可愛い花だから、少し診療所にも飾ったら?」 「そうだな」  祖父は佳以から花を受け取る。 「お祖父様、もう午後の診察は終わったの?」 「ああ。今日の晩飯はどうする? たまにはどこかに食べに行くか?」 「めずらしい」  佳以はふふっと笑った。  この見事な植物園のような庭は、佳以の大切な研究場所だ。佳以は基礎医学の研究者である。医師免許を持っているれっきとした医師なのだが、学生の時以来、佳以は患者を診察したことがない。薬理学を専門とする研究者として、佳以は大学の医局に所属し、静かな研究の日々を送っている。 「それなら、新しくできたお寿司屋さんに行ってみない? ほら、事務の加藤さんが言ってた……」 「ああ、何か寿司居酒屋とか言ってたな……」 「リーズナブルなわりに美味しかったって言ってたよ。加藤さん、美味しいものに目がないから、たぶん間違いない」 「だな。じゃあ、俺は風呂に入ってから行くことにするよ」 「わかった」  佳以は頷いてから、もう一度庭を見回した。 「ノイバラの実は……まだつかないかな」  庭の片隅には、小さな温室まである。  大学でも薬草の栽培はしているのだが、やはり自宅の方が採取したい時に採取したいだけできるし、何よりゆっくりと観察もできる。 「佳以、おまえも風呂に入ってから、メシに行かないか?」 「あ、うん」  野々宮家の風呂は、檜風呂でかなり広い。 「そうだね、久しぶりに背中を流してあげるよ」  佳以はにこりと微笑むと、祖父に続いて、家の中に入っていった。  佳以の部屋は、広い庭を見渡すところにあった。シャワーで濡れた髪をタオルで拭きながら、ふうっとため息をつき、ベッドに座る。 「お祖父様ったら……」  思わず、笑いが漏れてしまう。  久しぶりに孫と外食したのが嬉しかったのか、いつもよりも酒が進んでしまった祖父をやっと寝かしつけ、もう一度シャワーを浴びて、ようやく落ち着いたところだ。 「お祖父様があんなにご機嫌なの……久しぶりに見たかな」  内科医である祖父は、穏やかな人柄ではあるが、いつも何かを考え、悩んでいるような表情を浮かべていることが多い。特にそれは、佳以を見ている時に多いような気がする。 「僕は……いつまで経っても、お祖父様の庇護の下にあるようなものだからなぁ……」  佳以には両親がいない。佳以がまだ幼い頃に事故で二人とも亡くなったというのだが、なぜか写真の一枚も残っておらず、佳以は両親の顔をまったく知らない。子供の頃には、なぜ自分に親がいないのか、どんな人だったのかと、まだ当時存命だった祖母にもさんざん尋ねて困らせたものだ。  佳以が中学に入った年に祖母が亡くなり、祖父と二人暮らしになった。 「……どうすればいいのかなぁ……」  祖父と二人暮らしになって、家事のほとんどを佳以が担うことになり、自然と両親のことは口にしなくなっていった。そんなことを話している余裕がなくなったからだ。慣れない食事作りや洗濯、掃除と学校生活を両立していくうちに、佳以は過去にこだわらなくなり、二人は穏やかに暮らしていた。

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