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第6話

〝律……だよね……?〟  佳以は吹いてくる風に微かなジャスミンの香りを感じる。 「やっぱり……律だ」  そのすっきりと伸びた背中を探して、佳以が淡い日陰に踏み込んだ時だった。 「……大好きなんです……っ!」  女性の甲高い声が聞こえて、佳以は思わず足を止める。 「不破先生……っ!」 〝え……っ〟  自分でもびっくりするくらい、胸がどきりとした。 〝ちょっと……まずくない……?〟  このまま帰ってしまおうか。でも、ここで帰ったら、律はきっと不審に思う。連絡をよこしたはずの佳以がいつになっても現れないのだから。  佳以は少しためらってから、そっと木立の間から顔を覗かせた。部室棟の後ろは雑木林になっていて、晩夏の今でも渡る風はひんやりしている。 「でかい声出すな」  律のよく通る声が聞こえた。佳以は息を呑んで、幼なじみの姿を探す。 〝いた……〟  雑木林の中、一本の木に寄りかかるようにして、律が立っていた。そして、その腕にしがみついていたのは、小柄な女子学生だった。 「好きなんです、不破先生……」  真っ赤になって、精一杯の告白だった。その必死さに、佳以は思わずぎゅっと手を握りしめてしまう。 「……先生……」  切ない声。答えは聞こえない。佳以はそっとそっと後ずさる。 〝ここに……いちゃいけない……〟  彼女は律の腕を抱きしめ、泣いているようだった。彼はなんと答えるのだろう。その答えを聞くのが怖くて……彼の答えを聞きたくなくて、佳以はそっとその場を立ち去った。なぜか頬を濡らすあたたかいものを感じながら。  佳以は一人、とぼとぼと歩いていた。いつもなら、大学まではバスを使っているのだが、誰とも顔を合わせたくなくて、家まで歩いてしまった。 「……暗くなっちゃった」  大学から家までは、歩くと二時間近くかかる。佳以が古びた我が家にたどり着いた時には、すでに午後八時近かった。  佳以が見たのは、自分と律の優しい関係の終わりを告げるものだった。 〝今まで……律は何度、あんなふうに告白を受けてきたんだろう〟  恵まれたルックス、知性、穏やかで思いやり深い性格。不破律が女性に好かれないはずがなかった。そして、年齢的にもすでに結婚していてもいいはずだった。 〝律は……きっと、僕を見捨てることができなかったんだ……〟  佳以は子供の頃から引っ込み思案だった。小柄でおとなしい佳以は、積極的に友達を作ることもできなかった。目立たないため、いじめられることもなかったが、逆に律以外に親しい友達もいなかった。 〝僕は……いつの間にか、律に依存していたのかもしれない〟  ハイスペックな親友。いつも傍らで佳以を守ってくれた、優しい親友。いつの間にか、彼が傍にいてくれることが当たり前になっていて、そして、この関係がずっとずっと続いていくと思っていた。 「僕は……傲慢だ」  佳以はぽつりとつぶやいた。  どうして、律がずっと傍にいてくれると思い込めたのだろう。彼と自分は別の人間で、いつかは必ず道が分かれるはずなのに。 「僕は……」  ぼんやりと……律に抱きついていた女性のことを思い出す。 「あんなふうに……律に……」  彼に甘えることができたら……なんのためらいもなく、彼に甘えることができたら。 「……何考えてるんだろう……」  自分も律も同じ男性で、兄弟でも親子でもない以上、一生一緒にいることなどできない。  もしも……もしも、自分が女性だったら。あんなふうになんの戸惑いもなく、彼に寄り添うことができたら。 〝僕は……律の傍にいられるのかな……〟  思考は堂々巡りを続ける。研究者である佳以は、思考を巡らせることに慣れている。何時間でもじっと考え、思考深度を深めていく。しかしそれは一歩間違えば、独りよがりにもなりかねない。いくら考えても答えの出ない、出口のない迷路に迷い込むことになる。 「……あれ……?」  考えることを一旦やめて、佳以はふと玄関を見た。懐かしい風合いの格子戸。この時間なら、門灯も玄関内の明かりもついているはずなのに、なぜか真っ暗だ。 「……お祖父様……?」  スイッチを入れて門灯を点け、佳以は格子戸に手をかける。 「鍵もかかってない……」  からりと戸を開け、佳以は家の中に入る。 「お祖父様?」  室内は暗かった。どの部屋にも明かりはついていない。廊下の明かりをつけて、佳以はいつも祖父がいる居間に向かう。 「お祖父様? いらっしゃらないんですか?」  居間の襖を開けて、佳以は顔を出す。 「お祖父様? おじい……」  廊下からの明かりで、室内は薄ぼんやりと明るくなっていた。そこに倒れていたのは……。 「お祖父様……っ!」  畳の上に倒れていたのは、白衣姿の祖父だった。

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