6 / 6
第6話
〝律……だよね……?〟
佳以は吹いてくる風に微かなジャスミンの香りを感じる。
「やっぱり……律だ」
そのすっきりと伸びた背中を探して、佳以が淡い日陰に踏み込んだ時だった。
「……大好きなんです……っ!」
女性の甲高い声が聞こえて、佳以は思わず足を止める。
「不破先生……っ!」
〝え……っ〟
自分でもびっくりするくらい、胸がどきりとした。
〝ちょっと……まずくない……?〟
このまま帰ってしまおうか。でも、ここで帰ったら、律はきっと不審に思う。連絡をよこしたはずの佳以がいつになっても現れないのだから。
佳以は少しためらってから、そっと木立の間から顔を覗かせた。部室棟の後ろは雑木林になっていて、晩夏の今でも渡る風はひんやりしている。
「でかい声出すな」
律のよく通る声が聞こえた。佳以は息を呑んで、幼なじみの姿を探す。
〝いた……〟
雑木林の中、一本の木に寄りかかるようにして、律が立っていた。そして、その腕にしがみついていたのは、小柄な女子学生だった。
「好きなんです、不破先生……」
真っ赤になって、精一杯の告白だった。その必死さに、佳以は思わずぎゅっと手を握りしめてしまう。
「……先生……」
切ない声。答えは聞こえない。佳以はそっとそっと後ずさる。
〝ここに……いちゃいけない……〟
彼女は律の腕を抱きしめ、泣いているようだった。彼はなんと答えるのだろう。その答えを聞くのが怖くて……彼の答えを聞きたくなくて、佳以はそっとその場を立ち去った。なぜか頬を濡らすあたたかいものを感じながら。
佳以は一人、とぼとぼと歩いていた。いつもなら、大学まではバスを使っているのだが、誰とも顔を合わせたくなくて、家まで歩いてしまった。
「……暗くなっちゃった」
大学から家までは、歩くと二時間近くかかる。佳以が古びた我が家にたどり着いた時には、すでに午後八時近かった。
佳以が見たのは、自分と律の優しい関係の終わりを告げるものだった。
〝今まで……律は何度、あんなふうに告白を受けてきたんだろう〟
恵まれたルックス、知性、穏やかで思いやり深い性格。不破律が女性に好かれないはずがなかった。そして、年齢的にもすでに結婚していてもいいはずだった。
〝律は……きっと、僕を見捨てることができなかったんだ……〟
佳以は子供の頃から引っ込み思案だった。小柄でおとなしい佳以は、積極的に友達を作ることもできなかった。目立たないため、いじめられることもなかったが、逆に律以外に親しい友達もいなかった。
〝僕は……いつの間にか、律に依存していたのかもしれない〟
ハイスペックな親友。いつも傍らで佳以を守ってくれた、優しい親友。いつの間にか、彼が傍にいてくれることが当たり前になっていて、そして、この関係がずっとずっと続いていくと思っていた。
「僕は……傲慢だ」
佳以はぽつりとつぶやいた。
どうして、律がずっと傍にいてくれると思い込めたのだろう。彼と自分は別の人間で、いつかは必ず道が分かれるはずなのに。
「僕は……」
ぼんやりと……律に抱きついていた女性のことを思い出す。
「あんなふうに……律に……」
彼に甘えることができたら……なんのためらいもなく、彼に甘えることができたら。
「……何考えてるんだろう……」
自分も律も同じ男性で、兄弟でも親子でもない以上、一生一緒にいることなどできない。
もしも……もしも、自分が女性だったら。あんなふうになんの戸惑いもなく、彼に寄り添うことができたら。
〝僕は……律の傍にいられるのかな……〟
思考は堂々巡りを続ける。研究者である佳以は、思考を巡らせることに慣れている。何時間でもじっと考え、思考深度を深めていく。しかしそれは一歩間違えば、独りよがりにもなりかねない。いくら考えても答えの出ない、出口のない迷路に迷い込むことになる。
「……あれ……?」
考えることを一旦やめて、佳以はふと玄関を見た。懐かしい風合いの格子戸。この時間なら、門灯も玄関内の明かりもついているはずなのに、なぜか真っ暗だ。
「……お祖父様……?」
スイッチを入れて門灯を点け、佳以は格子戸に手をかける。
「鍵もかかってない……」
からりと戸を開け、佳以は家の中に入る。
「お祖父様?」
室内は暗かった。どの部屋にも明かりはついていない。廊下の明かりをつけて、佳以はいつも祖父がいる居間に向かう。
「お祖父様? いらっしゃらないんですか?」
居間の襖を開けて、佳以は顔を出す。
「お祖父様? おじい……」
廊下からの明かりで、室内は薄ぼんやりと明るくなっていた。そこに倒れていたのは……。
「お祖父様……っ!」
畳の上に倒れていたのは、白衣姿の祖父だった。
ともだちにシェアしよう!

