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第8話 同居猫

「君も風呂にどうぞ。掃除してあるから」 「え、いいの?」 「着替えも新品なのを置いてあります」  なんだかんだで至れり尽くせりで、やはり律は優しい。  風呂場に足を踏み入れると、湯船にお湯が張ってあってビックリした。  きっと僕のために入れてくれたのだ。  髪や体を洗って湯船にあごまで浸かると、あまりの気持ちよさに顔が綻んだ。   湯気でけむる中、そういえば律と順番で風呂に入るのは2回目だとまた思い出す。  お風呂のお湯はこのままにしようかと迷ったけれど、結局栓を抜いて、かかっていたブラシで掃除をした。  着替えをしている最中、洗面所を見て気付いたことがあった。  歯ブラシが1本しかなく、ヘアワックスや化粧水も、男物。  風呂場の中でも思ったけど、他人の影が見当たらないのだ。  髪の毛1本も残さぬように床をティッシュで拭いてからゴミ箱に捨て、ダイニングへ行った。  律はノートパソコンを開いて何か作業をしながら、ちらりと僕に視線をやった。  目が合うと体温が急に上昇する。  これは単なる逆上せではない。 「律の同居人さんは、いつ帰ってくるの?」  律はまたパソコンに目を落とした後、ほんの少し笑みを浮かべた。 「もういます」 「はい?」 「たぶん、隣の部屋のカーテンの裏に」  え、あなたの同居人はスパイか何か?と考えたけど、僕は壁の絵を見ながら目をぱちくりさせた。 「同居人って、猫?」 「そうです」 「なにそれ……ふふっ」  それなら同居人じゃなくて、同居猫だ。  僕はくすくすと笑ってしまった。  律も釣られたように笑顔になっていく。 「そんなにおかしいですか」 「うん……じゃあ、一人暮らしってこと? 恋人は?」 「いません」  結婚もしていないし、恋人もいないのか。  嬉しくて顔が変ににやけそうになってしまうので、話題を変えた。 「律、5万円、いらないからね」  タクシーの中で握っていた5万円を返そうとしても、受け取ってもらえなかったのだ。  タクシーの運転手に不審に思われるのも嫌だから仕方なく僕の財布に入れたけど、貰う訳にはいかなかった。 「いいや、いいです。持って行って下さい」  なのに律は、ずっとこれだ。  その先の言葉を聞くのが怖くて、僕も深く突っ込めないでいるのが難点だ。  ──だから、もう関わらないで。  そんなふうに言われたらどうしよう。  せっかく会えたのに。  律は今もまだ、自身の親に言われた「深山(みやま)家の人間とは関わるな」という言葉を守りたいのだろうか。  律はもう大人だ。  僕はまだ学生であるから、はっきりと自立できているとは言い難いけど、これからは親のエゴではなく自分の意思で人生を切り開いていきたいというポジティブさは持っている。    律だって、自分の意思で写真家になったのだろう。  市議会議員の頑固一徹な律のお父さんが、律の職業をすんなり受け入れたとは思えない。  葛藤はあっただろう。  だが律は、写真家という道を選んだ。  だったら僕に対しても、自分の意思で選んでほしい。  それとも自分の意思で、僕と関わりたくないと思っているのか── 「何か飲みます?」  キッチンに移動した律が、ケトルに水道水を入れながら聞いてくる。  コーヒー、紅茶、ココアや緑茶とたくさん種類を出されて、選択肢が多くて迷うところだけどココアにした。  ソファーの左側に座ると、同じく律も距離を取って右側の隅に腰を下ろした。  律の、湯上りのしっとりとした艶のある肌感がなまめかしい。  黒い髪の毛はサラサラしていて絹のようで、許されるのならばそれに触れたかった。 「律は政治家にでもなるのかと思ってたな」 「俺もそう思ってました」  律は空白の5年間をポツポツと語っていった。  大学在学中に訪れたマイアミで、たくさんの自然と触れ合いながら写真を撮るうちに仕事にできたらいいなと思ったこと、大学を辞めて専門学校に入り直したこと、そこで知り合った友人と会社を立ち上げて、ここから少し離れた場所にあるスタジオで主に仕事をしていることなどを。

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