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第56話 ごめんね。

「……えっ?」  思いもよらぬ発言に瞠目した。  何がどうなってそうなるのだ。  いつの間にか手首が自由になっていた僕は、慌てて上体を起き上がらせる。 「ちょ、ちょっと待ってよ。責任取るって約束したじゃん」  単なるセフレになるのは嫌だけど、律との触れ合いを終わらせたくなくて必死に縋った。  だけど律は硬い表情を変えず、真っ直ぐに僕を見据えていた。  この目は知っている。  海から帰ってきた時、父親に言われて、もう僕の家には関わらないと約束した目。  こちらがどう言っても自分の考えは覆さない意思表示だ。  重い沈黙のあと、律はポツリと告げた。 「俺はひとつだけ、後悔していることがあります」  (ゆる)してほしいとでも言いたげに、律は奥歯を噛み締めたような顔になる。 「あの日、きみと触れ合ってしまったことです」  言葉の意味をすぐに理解できて胸が苦しくなった。  あの日とは5年前のことだ。  全てはそこから始まった。  僕は男の人にしか目が向かなくなって、久しぶりに会えたらますます律のことで頭がいっぱいになって。  律も、僕と久しぶりに会えて嬉しいはずだと思っていた。  責任を取るていで接しているけど、本当は律も楽しんでいるのかと思っていた。  僕に好きな人の面影を重ねて手淫をしていたとしても、関係は続いていくと思っていた。  だけど律は後悔をしているらしい。  僕をこんな風にしてしまった自分を悔やんでいる。そのことで律を悩ませていただなんて思わなかった。  僕の瞳に涙が溜まって頬を伝っていた。  僕はどうなってもいいから、律には苦しんで欲しくなかった。 「ごめんね……」  謝ると、情けなくてますます泣けてきた。  僕は自分のことしか考えていなくて。  律の気持ちが欲しいとばかり願っていた。 「すみません。泣かせてしまって」  律は目尻を親指で拭ってくれるが、その優しさが逆に辛い。  優しくしないで放っておいて欲しい。  もっと好きになってしまうから。  小雨の中をバイクで帰ってきたので、肌と服はしっとりと濡れていた。  律は一旦起き上がり、部屋を出ていった。  シャワーの音がする。どうやら浴槽にお湯を張ってくれているようだ。  しばらくして戻ってきた律は僕に手を差し出した。 「立てますか? とりあえず風呂に入ってください。飲んだ後ですが、このままだと風邪を引くので」 「……一緒に、入りたい」  鼻を啜ってお願いすると、律はわずかに動揺したように目を瞬かせた。 「ダメ?」 「……分かりました」  拒絶されなかったことに安堵した僕は、乱れた服や髪を直して律の手を取り、脱衣所へ向かった。  本当に潔癖症だったのかと思うくらい、僕のそれは消えつつあった。  未だに公共交通機関ではマスクや除菌ジェルを使う時があるけど、律といる時は何も気にならない。  触れられて、ドキドキするだけ。

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