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第71話 思い出にされてない
「千紘」
「……やっぱ死にたくないや」
さっき『死んでもいい』って思ったけれど。
僕の呟きはエンジン音にかき消されたようで、聞き逃した律は慌ててエンジンを切った。
「いま何か言いましたか?」
「ん、別に……どうしたの?」
さっきまで泣き出しそうだったのに、顔を見られたら安心したのか、それとも別の理由か、案外普通に話しかけることができた。
「千紘の家へ向かおうとしたんですが、なんとなくここじゃないかって……」
「えー、すごいね。その通りだったじゃん」
「まさか本当にいるとは思わなかったです」
「僕のことだから、素晴くんに連絡するとか思ったの?」
「はい、そんな気がして……それはいいとして、千紘。俺はきみに、言いたいことがあります」
律はバイクから降り、ヘルメットを外した。
髪をクシャクシャと手で直している律は、いつもの黒いジャケットと革の手袋、あとメッセンジャーバッグを背負っていた。
そのバッグに引っかかっていたのは、傷が付いたベージュ色のヘルメットだった。
僕がいつも被っていたやつ。
それを見たら、砂漠のようだった僕の枯れ果てた心に水が入ったように、じんわりと潤っていった。
───僕はまだ、思い出にされていなかったようだ。
「ごめんなさい。俺は本当は、千紘が好きです」
真っ直ぐに見つめられて、僕は呆然とした。
律も僕が好きだと、前に聞いた。
けれどその意味合いがその時とは違う気がすると直感で思った。
「……それって、僕の言ってる好きと同じ意味?」
「そうです」
同じ職場の好きだという女性を透かして見ていたと思っていた瞳は、今度はちゃんと僕を見ていた。
熱っぽくてどこか儚げで、こうなったことを赦して欲しいと乞うような目。
「僕が可哀想になったから、そうやって言ってる?」
「違います。ずっと嘘を吐いていましたが……本当にきみのことが」
「えー……なんで嘘、なんか……」
目の奥から、ほろっと涙が零れてしまった。
安堵と驚嘆と当惑と。
簡単には言い表すことのできない感情でいっぱいで。
おいで、と手を差し出されたので掴むと、僕は引き寄せられて律の胸に埋まった。
ジャケット越しに、とくとくと高鳴る心臓のおとが聴こえる。
腰に片手を回されても、前髪を割っておでこにキスをされても、僕は信じられない心持ちのまま、ただ大人しくされるがままだった。
「好きです。5年前からずっと、千紘が好きでした」
ハッとして顔を上げると、唇が触れそうな距離に律がいた。
腰に回された手が力強く、けれど壊れものを扱うように優しく僕を包み込んでくれる。
引き寄せ合うように、僕らはキスをした。
ほんの数秒後には唇が離れていく。
互いのまつ毛が付きそうなほどな距離で見つめ合ったあと、同じタイミングで目を閉じて、また唇を寄せていた。
軽く触れ合っているだけなのに、頭からつま先までがジンと痺れてくる。
5年前、律がしてくれなかったキスだ。
僕は三日月が見守る空の下、大好きな人の甘い温もりに包まれた。
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