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第35話 【名津視点】別れ

 病室の天井の黒丸を数えるのに飽きてきたころ、警視庁の人が俺に会いに来た。  川中と何かトラブルがあったのではないかと、何度も何度も尋ねられた。でも、りょうが川中に襲われそうになった、なんて俺の口から言うわけないじゃないか。公になったらりょうが傷つく。  それでもその警視庁の人は、幾度も病室にやってきて、同じことを繰り返し問う。うんざりしていたが、その間に新しい担任やユイ、春久、部活の友人が見舞いにきてくれた。  友人が会いに来てくれるだけでうれしい。だけど、いくら待ってもりょうだけは病室に来てくれなかった。  今日は来てくれるのか、じゃあ明日は? そうやって毎日待ち続けたが、りょうの姿を見ることはできなかった。  もしかしたら、あの時りょうも怪我をして寝込んでいるのではないかと心配し、優心さんにメールを送ったが返事がない。見舞いに来たユイに尋ねると「委員長は、元気だよ」としか教えてくれなかった。  順調に回復すればするほど、退屈な時間がどんどん増えていく。暇すぎてスマホを開いたら、俺が刺されたことがニュースになっていることに気づいた。  当然と言えば当然だ。あんなに通行人が多い時間帯と場所で、事件は起きた。全国ニュースになるだろう。関連するニュースを斜め読みしていたら、りょうらしき写真が画面を占拠した。 「え…りょう?なんで?」  ドクンドクンと鼓動が強く鳴り響く。目元は隠れていたが、形姿がりょうそのものだった。  学生証の写真、遠足の時の集合写真、終いには隠し撮りをしたような写真まで見つかった。  写真の掲載元のニュースサイトを開くと、「『オメガの誘惑に勝てなかった』刺した男の供述、学校側は把握せず」というタイトルのニュースだった。  りょうが学校で発情し、周囲を誘惑したことが原因で、今回の事件が起こったという内容だった。そのニュースの下には、何千件ものコメントが付いていた。 『オメガなんてまだ居たんだ』 『ここ進学校でしょ?なんでオメガが入学できてるの?もしかして裏口?』 『オメガは本当に怖いね。自分の近くに居なくて良かったとつくづく思う』 『刺した男がもちろん悪いが、これには同情する』 『このオメガの子、学校で発情したなら襲われても文句言えないよ』 『学校で発情した時点で退学でしょ。なんで担任の方が辞めさせられてんの?』 『刺された子もオメガのフェロモンにやられてたんでしょ?かわいそうに。一番の被害者』 「なんも知らねーくせに!」  気づいたら、スマホを投げて叫んでいた。思いっきり左手を振り回したからか、傷口がズキンと痛む。  りょうが今どうしているのかますます心配になった。同時に、自分の浅はかな行動のせいで、りょうをとてつもなく傷つけていることを悔いた。後悔して、りょうに謝罪して、また後悔して……。でもどうやったって時間は戻らない。  りょうのためだと言って、本当は自分のために川中を排除した。それならそれで、もっとりょうの近くにいなければいけなかったはずだ。それなのに俺は春久と自身を比べて勝手にいじけて、りょうから逃げた。  発情期の乱れだって、俺のせいだったはずだ。俺の知識不足のせいでりょうのサポートをしっかりできず、結局教室で発情させてしまった。  全て、全て自分のせいだ。 「おーい、お兄さまが見舞いに来てやったぞー」  場違いな兄の声が病室に響く。 「……何?」 「何って、見舞い。着替えとか漫画とか、いろいろ持ってきてやったんだぞ、感謝しろよー」 「ここまで車で来た?」 「ん?ああ、そうだけど」 「りょうの家まで連れてって!」  気持ちだけが先走って、鈍った身体が追いつかず、ベッドから転がり落ちるように兄の前に躍り出た。 「いや……え?まだ入院中じゃん。それに、母さんから何も聞いてないの? もうあの子には会えないよ」  今度は頭が追いつかなくて、気づいたら兄の胸ぐらを掴んでいた。 「なんでだよっ!俺はりょうが心配なんだ!なんで会えないんだよ!」 「うっ…ちょ、名津…く、くるしっ」 「あぁ、悪い」  手を解くと、兄はゲホゲホと何度か咳き込んで、服を整えながら話し始めた。 「当たり前だろう?大事な大事な佐野製薬の跡取り息子(次男)が大怪我したんだ。俺たちの両親が何もしないわけないじゃん」  兄の言葉を聞いて、絶句した。りょうは、学校を追い出されてしまったのだろうか。 「元々あの子、頭良いんだろう?俺も聞いて驚いたけど、特待生であの学校に入学してるって言うじゃん。  本人も前から希望してたみたいだし、学校側も断る理由はないでしょ」 「……何の話だ?」 「だから……はぁ…。本当に何も聞いてないんだな。なんで俺が説明してやらなきゃいけないわけ?」 「いいから話せ!」  だんだんと身体の感覚が戻ってきて、さらに一歩前へ出て兄に迫った。 「おいおい、お兄さまに向かってその口の利き方は……って、まあ怪我人だから大目に見てやろう。  向原くんは留学するんだよ」 「りゅ、りゅうがく……」  その言葉を聞いて、少しホッとした。りょうは退学させられたわけじゃなかった。  でもだからといって、俺とりょうが離れることには違いない。そんなの絶対にダメだ。 「その留学、もう決定してるの?」 「ああ、それで折り合いがついたんだからな」 「それ、止める方法何かない?」  こんなふざけた兄だが、一応法学部に通っている。なんでも良いから、りょうを引き留める方法を教えて欲しかった。  兄はもう一度大きなため息をついて、口に掛けた。 「あのさぁ、名津くん。もう少し大人になろうよ。向原くんが今どんな状況か分かってるよね?スマホ見れるんだし」 「……まあ、大体は」 「良かったじゃん、留学できて。このまま日本に居ても、平穏に暮らせないでしょ?」  確かに、兄の言う通りだ。誹謗中傷の嵐の中、今りょうはどんな気持ちでいるんだろう。隠し撮りもされて、いつも通り学校に通えているとは到底思えない。  だったら新しい場所で、新たな生活をスタートさせた方がりょうのためだと、こんな俺でも分かる。でもその新しい生活に俺はいないんだ。そんなの、絶対に嫌だ。 「じゃあ、せめて留学前にりょうに会いたい」  とにかく、この目でりょうの無事を確認したい。そしてりょうを説得する。俺と会って話せば、りょうは留学を思い止まってくれるかもしれない。 「だから、言ったじゃん。会えないんだって」 「なんでだよっ!ほんの少しりょうの家に寄ってくれるだけで良いから!」 「そんなの俺が怒られるじゃん。向原くんに会うのは無理っぽいよ。なんかよく分かんないけど」 「じゃあ俺1人で行く」  病衣を脱いで着替えようとすると、兄はそれを静止するように肩に手を置いた。諭すように落ち着いた口調で話し始める。 「今、向原くんには記者がベッタリ張り付いてるじゃん。会いに行ったらすぐ親にバレるよ?  そうしたらどうなると思う?親はカンカン、それこそ向原くんがどうなるか分かんないじゃん」  確かに、それもそうだ。急に手から力が抜けていくのを感じる。 「名津があの元担任を飛ばしたように、親が向原くんを飛ばしただけ。同じことしてんだから、分かるでしょう?会いに行っちゃダメだよ」  息巻いて動いていたから気づかなかった。立っているだけで息が上がっている。ずっとベッドに寝ていたせいで、思った以上に体力が落ちているのだ。  そのままヘナヘナと床に座り込んでしまった。兄は屈んで、何かをバッグから出して目の前に差し出す。 「ただ、俺1人なら向原くんに会いに行けるってわけだ。これ、預かってきた」  手渡されたのは、手紙だった。開けるとほとんど真っ白で、中央にたった1文だけりょうの生真面目な字を見つけた。  ——名津、大好きだよ。さようなら  いろいろなことがありすぎた。それでも「りょうがいる」という事実だけを頼りに、どうにか均衡を保っていた精神が崩れていく音が聞こえた。  

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