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第40話 暗雲
とうとう感謝祭が近づいてきた。その前後の休暇中に、ノンカンファレンストーナメントが行われる。このトーナメントは、NCAAのトーナメントで対戦する可能性があるカンファレンス外の強豪校と戦えるチャンスだ。
しかも、ほとんどのトーナメントがテレビ放送される。注目度が高い試合ばかりが続くため、ここで結果を出したいと思っている選手も多い。
佐野も例に漏れず練習に打ち込んでおり、最近はほとんど会えていない。
俺自身もテストや発表会などが立て込んでおり、佐野と連絡さえまともに取れていなかった。忙しくしていればなんて事はないのだが、ふと我に返ると寂しさがどっと押し寄せ、居ても立っても居られなくなる。
高校生の時は、学校へ行けばほぼ確実に佐野に会えた。毎日顔を合わせていると、感覚が鈍るのだ。潮汐が終わることがないように、明日も当然のように会えるだろうと思ってしまう。
俺と佐野は会えなくなった。それを身をもって知っているからこそ、今少し遠くても会いたければ会えるこの環境が僥倖だと理解できる。だからこそ、会いたいときに会っておかなければならない。
佐野に会いに行こう。寮に行けば、数分くらいは会えるだろう。その口実にイチゴパイを作れば良い。しかし、こちらのフルーツは日本ほど美味しくない。旬がずれれば尚更である。今入手できて美味しいのは、梨だ。そのため梨のパイを作って、寮へ向かった。
ちょうど練習が終わる夕刻を狙って、バスと電車を乗り継いで佐野の寮へ向かった。
寮に入ると、すぐ左手に警備員室がある。その正面はガラス張りになっており、恰幅の良い警備員が気怠そうに椅子に腰掛けているのが見える。
“Excuse me. I would like to meet Natsu Sano……”
(すみません、佐野名津に会いたいのですが…)
窓をノックし、小窓を開けた警備員に佐野と会いたいことを伝え、身分証を提示した。その警備員が佐野を呼んでくれるので、俺は待合室のソファに腰を掛けて待つことにした。
“It looks like he hasn’t got back yet”
(まだ帰って来ていないようです)
佐野が警備員の呼びかけに応じなかったようだ。
“May I wait here?”
(ここで待っていてもいいでしょうか?)
警備員の許可を得て、もう少しここで待たせてもらうことにした。深緑色のカバーがかけられたソファが、ギシッと軋む。
例によって、シアトルはまた雨が降っていたので、ぬれた指先や足先から冷たさが身体全体に広がる。待合室は人の出入りが激しいせいか、それほど暖かくはない。
バスケットボールやシューズを持った人が何人か目の前を通って行く。バスケ部の練習が終わったようだ。そろそろ佐野もここを通るだろうと思ったのだが、なかなか現れない。もしかしたら、どこかへ出かけているのか?いや、昨日のメールのやり取りでは「明日も練習」とあった。
仕方なく佐野のスマホに電話をかけてみたが、出ない。自主練で残っているのか…?なぜかパイを焼くと佐野に会えない。佐野は一生、俺の手作りパイを食べることができないのではないかと煩慮してしまう。
俺はしばらく、手作りパイを作ると佐野に会えないというジンクスについて憂悶していた。気づくと、目の前の警備員室で何やら話し込んでいる生徒がいた。佐野と同じジャージを着た、オレンジ色の髪をした長身の学生。相変わらず警備員は気怠そうなのに、その学生の顔には喜色が浮かんでいる。なんだか、佐野のような曇りのない笑顔だと思い、見惚れてしまった。
俺が視線を送り過ぎたせいだろう、その学生がこちらを振り向いた。咄嗟に目線を逸らしたが、こちらに向かって歩いてくる気配がする。
「君、ナツを待ってる?」
「えっ…」
その学生の口から日本語が聞こえてくるとは慮外過ぎて、驚き慄えて声が出てこない。
「僕、ナツのroommate」
少し英語訛りがあるものの、流暢な日本語だ。彼は佐野のルームメイトらしい。佐野に少し日本語を教わった、とかいうレベルではなさそうだ。
“You speak Japanese very well ! Where did you learn Japanese?”
(とても上手に日本語を話しますね。日本語はどこで勉強したのですか?)
彼に日本語がどの程度伝わるか分からなかったので、とりあえず英語で応答した。しかし佐野のルームメイトはさらに日本語で返事をしてくれた。
「日本語で話しても、大丈夫。僕の母、日本人」
「えっ、そうなのか。ありがとう、助かります。あの、名津はまだ帰ってこない?」
「うん、まだ練習してる」
こんなところで佐野以外の人と日本語でコミュニケーションが取れるとは、喜びと安堵が心を灯す。すると、ずっと緊張して握り拳をしていたことに今気づいた。手の力を緩めると、じんじんと指先が痺れた。
「僕はルーク。君は?」
俺の隣のソファに腰掛け、柔らかく破顔しながら話しかけて来た。
「リオ、だよ」
『りょう』という名前は、英語圏の人にとっては呼びにくいようで、俺は『リオ』と呼ばれている。最近は自己紹介の時点でリオと名乗っている。
「リオはナツの友達?」
「そうだ。ルークは名津のルームメイトなんだな。名津はルークに迷惑をかけていないだろうか?」
「大丈夫。僕たちはうまくやっているよ」
ルークの『大丈夫』という言葉と、その明るい微笑にほっとした。こんなに穏やかで、かつ日本語が分かる人がルームメイトなら安心だ。
「よかった。これからも名津をよろしくお願いします」
俺はルークに向かって、深く首を垂れた。
「ふふっ…リオはナツのお母さん?You are a worrier(心配症なんだね)」
「あ、いや…」
俺は心配症なのか。否、基本的にはあれこれとウジウジ悩む事は少ない。だが佐野のこととなると、妙に不安が募り、思いを巡らせてしまう。
「僕、どこかでリオのこと見た気がする…気のせいかな?」
「え…」
ルークの灰色の眸を見つめて記憶を辿っていると、俺のスマホの振動と、扉が開く音が同時に耳に飛び込んできた。
「りょう!?なんでここにいるの!?」
ジャージ姿で、肩にタオルをかけた佐野が駆け寄って来た。左手にはスマホを持っている。どうやら俺の着信を見て、かけ直してくれていたようだ。
「佐野、遅かったな」
「遅かったなって…りょうがなんでここにいるんだよ!」
「パイ、作ったから持って来た」
佐野の前に梨のパイが入った手提げを差し出した。佐野の表情が一瞬綻んだが、すぐに取り繕った。
「う、うれしいけど……寮には来ちゃダメって言ったでしょ!?しかも、こんな夜に!大丈夫?何もなかった?」
「夜って、まだ7時だ。それに俺は…」
“Hahaha…There’s one more person who is a worrier”
(心配症の人がもう1人いた)
ケラケラと笑うルークは少年のようで、彫りの深さから影が差す表情はどこか艶を帯びていた。
ルークの笑い声で2人とも少し落ち着き、警備員がこちらを怪訝そうに見ていることもあって、佐野の部屋に向かうことになった。
「もう、なんで勝手にこっち来ちゃうかな。優心さんに連絡しとくからね!」
寮内を移動中、佐野はブツブツと文句を言いながらスマホを操作していた。
2階に上がって右手に曲がると、すぐに佐野とルークの部屋に着いた。開けると、想像よりも広くて驚いた。両側にベッドと勉強机があり、中央はがらんとしている。
ドアを開けると目の前に窓があるが、外が暗くて何も見えない。室内は、待合室より暖かくてほっとした。
「俺、左側だから好きにしてて。ちょっと優心さんと電話してくるから」
「優心と電話?だったら俺が…」
「ダメ!俺が話す。あと、勝手にどっか行っちゃダメだからね」”Luke! Keep your eyes on Ryo!”(ルーク、りょうのこと見張っておいて!)
「リオはナツに全く信用されていないね」
ルークはベッドに腰掛けて、白い歯を見せてニヤついている。
「あんなに怒らなくてもいいのに」
「ナツはリオのことが好きなんだね」
「え!……そ、そう思う?」
「うん、思うよ」
部屋が少し暑いのか、それとも俺の体温が高いのか、顔が火照ってきた。右手で顔を扇ぎながら佐野の机を眺める。
佐野は家政婦が常に居る環境で育っているので、掃除などできないかと思っていたが案外すっきりしている。
「日本人は綺麗好きだよね。ナツがルームメイトで良かったよ」
ルークに話しかけられて振り返ると、ちょうどジャージを着替えているところで、咄嗟に視線を佐野の机の方に戻した。
「…ル、ルークも綺麗にしてるね」
「うん。ナツが綺麗好きだから、僕も頑張って掃除してる」
「そうなのか」
タイミングを見計らって後ろを振り向くと、ルークはもう着替え終わっていた。確かに、ルークの机やベッド周りは片付いているように見える。これも安心材料の1つだ。佐野が快適に生活できていることが分かっただけでも、ここへ来た甲斐があった。
「これ、見て。この前の試合の後にみんなで写真を撮ったんだ」
ルークが机上にあった写真を見せてくれた。覗き見ると、10人ほどの選手たち全員が喜色満面に溢れていた。この試合には勝利したことが一目で分かる良い写真だ。
写真の中央から少し右側に佐野がいた。こちらの顔が勝手に綻んでしまうくらいの、あのひまわりみたいな笑顔がそこにある。
「リオはキレイだね」
「えっ……俺が?」
「うん。初めて見たとき、キレイな人だと思ったよ」
そんな風に外見を褒められたことがないので、どう反応したら良いのか戸惑う。
“Ah! Now I remember!”(あ!今思い出した!)
急にルークが叫び出したので、ビクッと身体が反応してしまった。
「え、何?」
ルークが何やら荷物を漁ったかと思ったら、スマホを取り出して操作し始めた。
「ほら、これリオじゃない?」
ルークがスマホをこちらに向けて見せて来たのは、2年前の俺の写真だった。
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