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第1話 黒薔薇の君

 次第に視界がぼやけていくのは、いよいよ勢いを増す吹雪のせいか、死期が近付いている証か。アディスレーンは疲れ果て、どちらでも構わないから早く楽にしてくれと願った。我が身に雪が降り積もっているのは察している。もはや指一本動かせない。その感覚のない両手は、この長旅を共にしたリュートを抱きかかえているはずだ。――いいや、こうなってみればごく短い日々だった気もする。アディスレーンの脳裏には、これまで立ち寄ったあらゆる土地の思い出が浮かんでは消えた。  走馬灯はやがて旅の始まりの日まで遡る。立派な送り出しだった。それもそのはず、アディスレーンは押しも押されぬ人気の宮廷音楽家であり、歌い手だった。王に召し抱えられ、貴族たちを前に朗々と古き英雄譚を歌い、奏で、喝采を浴び、何不自由なく暮らしていたのだ。それらを捨てて旅に出るというのは、アディスレーン自身のたっての願いだった。新しい物語。新しい曲。新しい歌。アディスレーンは、まだ出会っていないそれらの音楽を探したいと王に請い、王は渋々ながらもそれを認めた。アディスレーンの歌う楽曲はどれも素晴らしかったが、だんだんと慣れてしまっていたのも事実で、「旅に出て、新しい物語を連れてくる」という提案には、さすがの王も抗えなかったのだ。 ――あのまま城にいれば良かったのか。  アディスレーンは静かに瞼を閉じ、かつての煌びやかな日々を思い返した。讃辞を浴び、美酒に酔いしれ、戯れの恋もした。漆黒の長い髪をしたアディスレーンを「黒薔薇の君」と名付けたのはどの淑女であったか。いつしかそれは宮廷での通り名となり、王までもが「黒薔薇」と呼び、黒薔薇の刺繍を施した絹のスカーフを与えた。そのスカーフは今も首に巻いているはずだが、そんな薄衣で凌げる寒さではなかった。 ――ああ、俺は何故、こんな最果ての村で力尽きて、雪に埋もれようとしているのだっけ。  アディスレーンは、華やかな宮廷の記憶から打って変わって、数日前このひなびた村に到着したときのことを思い出そうとした。  村は粗末な家が並び、行き交う村人の身なりも質素だった。だが、彼らの顔に憂いは見えず、ふらりと現れた吟遊詩人にも温かく接した。ただ、よそから客人が来ることなどないこの村には、宿屋がないという。真冬の厳しい寒さの中、野宿というわけにも行かない。アディスレーンが困惑していると、一人の年老いた女がうちでよければ来るといいと声をかけてくれた。  気まぐれな天気に振り回され、老婆の家には数日世話になることになった。ようやく晴れ間が見えた朝、寝食の礼にと金を出そうとしたアディスレーンに、女はそんなものは要らないと言い、困ったときはお互い様だと笑った。しかしそれではこちらの気が済まない。アディスレーンは王がひときわ好んだ、十八番の曲を女に聴かせた。女は「長く生きているけど、こんな歌は初めて聴いた」とたいそう喜んだ。その喜びように、アディスレーンは試しに聞いてみた。この村に昔から伝わる歌はないか、それを聴かせてはくれないかと。だが、女は「あたしの歌など恥ずかしくて聴かせられない」と首を横に振る。そうかと思うと窓を開けて、目の前の鬱蒼とした林を指さした。 「この林を抜けると、この村や隣の村、山向こうの町……とにかくここらを()べている領主様のお城がある。お城の中にはそれはそれは見事な赤い薔薇がたくさん咲いていて、薔薇にも負けないほど美しい領主様がいらっしゃるそうだよ。あたしは領主様にお会いしたことがないけど、村のまつりの日には、お城の薔薇を村の者に一輪ずつ分けてくださったりもするから、さぞかし心も美しい方なんだろうね。そんなわけでみんな領主様を紅薔薇様と呼んでいる。紅薔薇様は音楽好きだと聞くから、あんたみたいなのが行けば喜ぶと思うよ」  アディスレーンは思った。音楽好きな美しい領主。それは好都合だ。こちらの歌を聴かせれば、それと交換にこの土地に伝わる、俺の知らない曲を教えてもらえるかもしれない。この村の者には飽きるほど古い歌でも、俺にとっては新しい歌だ。俺はそれらの新しい歌を集めたい。それに"紅薔薇様"と来た。黒薔薇の君と呼ばれた自分とは縁がありそうだ。  林の中を歩いていたときだ。それまでの好天が嘘のように急にあたりが暗くなり、雪がちらつき始めた。やがて風も出てきて、吹雪となった。来た道を戻るには奥深くまで来過ぎていた。林の出口はまだ見えない。雪を凌げる岩陰でもないものかと探したがそれもなく、そんなことをしているうちに本来の林道を外れてしまったようで、道なき道をただ前へと進むほかなくなった。  そうして、気付けば雪の上に倒れていたのだ。儚い旅の終わりだと、遠のく意識の中でアディスレーンは思った。  だが、悔いらしき悔いはない。俺はたくさんの歌を歌ってきた。曲を奏でた。もっと新しい曲を知りたいと旅に出た。あらゆる土地で数々の新たな曲を拾った。王の前でそれを披露できないのは申し訳ないが、元はと言えば誰かに聴かせたかったわけではない。己が歌いたかったのだ。奏でたかったのだ。――ああ、そうだ。ひとつだけ心残りがあった。紅薔薇様の曲。それが知りたかった。さぞや美しい歌であったろう。それを聴き、自らも歌ってみたかった。

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