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第2話 紅薔薇様

 アディスレーンが次に目を開けたとき、芳香漂う見知らぬ部屋にいた。 「ここは……?」 「お目覚めになりましたか。ああ、よかった、狩人が見つけるのがあと少し遅ければお命が危ないところでした。何しろお体のほとんどが雪に埋もれていたのだそうですから。さあ、温かいお茶をどうぞ」  美しい少年に差し出されたお茶は薔薇の香りがした。目覚めたときの(かぐわ)しさはこれかと思ったが、どうもそればかりではなさそうだ。寝具からも、いや、この部屋の空気そのものが薔薇の香を含んでいる。寝台の脇にあるテーブルにも、また天蓋の支柱にも薔薇の意匠が彫刻されていることに気付くと、さすがのアディスレーンも、ここがどこかを察しないわけにはいかなかった。 「楽師様でいらっしゃいますね。大切な楽器はあそこにございますのでご安心を」  少年は部屋の片隅を示した。確かに我が分身たるリュートが台座に、更にはふっくらと綿の入ったクッションの上に丁重に置かれている。雪にさらされて元の音色が奏でられるかは怪しいが、アディスレーンはひとまず安堵した。 「……紅薔薇様」  無意識に呟くと少年は驚き、そして微笑んだ。   「紅薔薇様をご存じですか?」 「音楽がお好きと伺い、是非ともお目通りをと思って、お城を目指していたところだったのです」 「ええ、紅薔薇様は音楽も絵画も、美しいものはなんでも愛する方でいらっしゃるのですよ」  そう語る少年こそ、改めて見れば絵画から飛び出したクピドの如くに美しい姿をしている。抜けるように白い肌、それに白い髪が印象的だ。  賓客の如き手当を受け、アディスレーンは順調に回復していった。紅薔薇との対面が叶ったのは、それから三日後のことであった。 「アディスレーンと申します。このたびは瀕死のところを救っていただき、誠に有難く存じます。私は今はこうして旅をしながら歌を歌っておりますが、元はこちらより南にある国の……」  身の上を明かそうとしたアディスレーンの言葉を遮ったのは、"紅薔薇様"、その人だった。 「そんなことはどうでもよい。弾いてみせよ」 「はっ」  リュートは問題なく美しい響きを奏でた。聞けば紅薔薇お抱えの楽師が、雪に濡れた楽器を見るやすぐさま適切な修理と手入れをしたおかげだと言う。既に贔屓の楽師がいるのかと身構えたが、すぐにそのほうがいいと考え直した。素人の口承ではなく、楽師の口から新しい歌を知れるほうがいいだろう。  だが、その願いは叶わなかった。アディスレーンが紅薔薇の前で歌ったその場で、前の楽師は解雇されてしまったのだ。 「気に入った。今日からおまえが私の楽師だ、アディスレーン」  たったそれだけの言葉で、人ひとりの運命が狂わされるのをアディスレーンは目の当たりにした。すれ違いざまに睨み付けて去って行く楽師にかける言葉はない。リュートの手入れの礼を言う暇すらなかった。 「嫉妬というのは醜いな。醜いものは嫌いだ」  紅薔薇はそう言い捨てると赤い酒を口にした。  燃えるような赤い巻毛は豊かで、胸の辺りまで垂れている。緑の目。白い肌。豪奢なレースをふんだんに使った衣装。確かに紅薔薇その人も、生きた陶器人形のように美しい。だが、村の老婆が思っているような「心も美しい」領主ではなさそうだ。それに。  ――これが領主だと。また随分と年若い。俺より年下ではないか。  アディスレーンが驚愕したのは、紅薔薇の美しさばかりではない。その若々しさだ。あの老いた女の口ぶりではもう何十年もこの地を統治しているはずだった。しかし、眼前の紅薔薇はせいぜい二十歳かそこらに見える。 「恐れながら紅薔薇様。私には帰るべき国があり、既に仕えている王がおられるのです。この吟遊の旅もその王のお計らいで許されていること。こたび私が一命を取り留めたのはまことあなた様のお力の」  またもアディスレーンに最後まで言わせずに、紅薔薇は彼を捉えるよう従者に目配せした。 「よその王など忘れるが良い。今宵はもういい。明日もまたここへ参れ」  既におまえは我が物であると(わきま)えよ。紅薔薇はそう言っているのだ。アディスレーンは二度と故郷に帰れないことを悟った。  紅薔薇は城の者を恐怖と甘言によって支配していた。  まなざし一つで長年務めた忠実なしもべを放逐するかと思いきや、次の瞬間には甘い言葉の一言で新入りの若者を虜にした。  アディスレーンも例外ではなかった。いつあの楽師のように呆気なく放り出されるかと戦々恐々としながらも、「今のはいいな。もう一度聴かせてくれ」と求められると天に昇る心地になった。  アディスレーンの身の回りの世話は、初めてここに来たときに茶を持ってきた、あの美しい少年がすることになった。名をクラートと言った。印象的な白い髪は生まれつき色素の少ない体質のせいだと言うが、その神秘的な美しさは紅薔薇とはまた違った趣をたたえていた。

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