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第3話 黒薔薇紅薔薇

「素敵な刺繍ですね。たいそう手が込んでいる」  アディスレーンがかつて王から賜った黒薔薇の刺繍のスカーフ。それを首元に形良く締めるのもクラートの役目だ。日によって結び方を変えたりもする洒落た気遣いは、アディスレーンには持ち合わせないものだった。そんな風にクラートに世話を焼かれながら城で暮らすようになって、早くも三月(みつき)が経とうとしていた。 「黒薔薇、と呼ばれていた」  刺繍の由来を語るついでにアディスレーンは懐かしい渾名を呟き、しばらくぶりに故郷に思いを馳せた。 「なんという素敵な偶然でしょう。アディスレーン様は黒薔薇の精として、呼ばれるべくしてここにいらしたのですね。紅薔薇様と黒薔薇様、まるで一対の絵のようにお美しく、お似合いのお二人ですもの。どうぞいつまでも紅薔薇様と仲良くしてくださいませ」  クラートはいつになく興奮気味に言った。  紅薔薇との間には、主従を超えた深い結びつきを感じる。そう思っているのは自分だけだろうか。アディスレーンはここのところそんなことばかり考えてしまっていたので、クラートの言葉にそわそわと胸の高鳴りを感じた。似合いの二人、この少年の目にもそう見えているのか。――紅薔薇には、俺がどう見えているのだろうか。 「光栄です」  アディスレーンはただそれだけ答えると、紅薔薇の待つアトリエに向かった。少し前からは演奏だけでなく、こうしてアトリエに呼ばれることも多くなった。  故郷は大国で、王の城は紅薔薇の城よりもずっと大きかった。今はもっぱら紅薔薇一人のために歌い、奏でているが、かつては王だけでなく数々の貴人たちのために歌っていたものだ。しかし、今の境遇とて悪くない。三ヶ月が経った今も夜ごと呼び出されては歌を歌い、紅薔薇は飽きもせずそれを聴いている。  故郷とは比べものにならないほど小さな領地とはいえ、そのほとんどが農家で、城内にあっても日々の食事には旬の食材が並ぶ。それから芸術を愛する紅薔薇の趣味に応じて、そこかしこに飾られている絵画彫刻はもちろん、調度品も食器も芸術品と呼べる代物ばかりだ。口にするもの目にするものだけで言えば、むしろ故郷よりもよほど豊かと言えよう。  そして何より、たかが楽師の自分の待遇。大国の楽師であればいくら王に気に入られようと数多(あまた)いる家来の一人に過ぎないが、ここではただ一人、紅薔薇と対等に芸術を語れる者として特別な寵愛を受けている。  アディスレーンがリュートを相棒として日々練習に余念がないのと同じように、紅薔薇もまた自ら筆を執り、絵を描くのが日課だった。絵を描いているときだけは、高慢な紅薔薇も殊勝な表情を見せる。アトリエに入ることを許され、その表情を見ることができるのもアディスレーンだけだ。 「前の楽師にも立ち入らせたことがない」  紅薔薇がそんなことを言うので、アディスレーンは有頂天になった。 「おまえは外の世界を知っているからな。私はここしか知らない」  アトリエの中では、紅薔薇はこうして淋し気な表情を隠さず、弱音を吐く。 「一緒に行きませんか。かつて私がいた国へ」 「おまえの国……」紅薔薇は一瞬迷う顔をしたが、すぐさまギリリと唇を噛みしめた。「行かぬ。私はここの領主ぞ。そんな遠くまで民を置いてゆけるものか」 「では、私も行きません」  アディスレーンは静かに微笑みを返した。 ――「らしい」ことを言うけれど、こんなことで民草に心を砕くような紅薔薇ではない。行かぬと言うのは、故郷に帰れば俺が二度とここに戻ってこないと不安に思うからだろう。そう思うのは傲慢だろうか。 「私はあなたのおそばにいますよ。いつでも。これからも」 「嘘は許さぬ」 「私があなたに嘘をついたことなどありましたか」 「……」 「それに、私が嘘をつけばすぐに見抜くでしょう、私より私を見ているあなたなら」  アディスレーンは傍らのカンバスに視線を送る。そこには黒髪の男が描かれている。まだ完成していないそれは、少し前から紅薔薇が描き始めたアディスレーンの肖像画だ。これまで静物しか描かなかった紅薔薇が、初めて描く人物画だった。逆に紅薔薇が描かれた肖像画なら、広間に飾られているのを見た覚えがある。かつては楽師だけでなく、画家がこの城に逗留することもあったのかもしれない。 「私はおまえのようになりたかった、黒薔薇よ」 「どこでその名を?」 「クラートから聞いた。この刺繍はその名にちなんで贈られたものだそうだな」  クラートの口が軽いのか、紅薔薇が地獄耳なのか。紅薔薇の耳の早さに戸惑っていると紅薔薇がスカーフの端をつまんだ。 「え、ええ。見ての通り私は黒髪が目印で……それだけのことです」 「黒はいい。何よりも美しい。醜いものを隠してくれるしな」紅薔薇はそのままスカーフを手繰り寄せるようにしてアディスレーンを引き寄せると、その胸に顔を埋めた。「私はかつておまえを黒薔薇などと呼んだ者たちに嫉妬しているのだ。そのような醜い感情も、この漆黒で隠しおおせたらいいと思う」  アディスレーンはおずおずと手を伸ばし、紅薔薇の赤髪をそっと撫でた。 「私はあなたの燃えるような赤が好きですよ、紅薔薇様」 「サイラス。ここではそう呼べ」 「サイラス……?」 「その名を呼んでいいのは、亡き父――先代の領主のみだ。これからはおまえの他に呼ばせない」 「サイラス」 「アディスレーン」  二人は口づけを交わした。  間近で見る紅薔薇――サイラスはやはり白磁のような肌をしており、翠玉の如き緑の目は濁ることはない。 「サイラス、お父上を亡くしたのはおいくつのときなんです? 随分と幼いときに亡くされて淋しい思いをされたのでは」 「いま、ここで、そのようなことを聞くのか」  アディスレーンの腕の中でサイラスは笑った。 「申し訳ございません。あなたがあまりにも瑞々しく、お若いから」 「私はおまえより十は年上ぞ」 「えっ」  驚くアディスレーンに、サイラスはまた笑う。 「父もそうだった。我が一族はあるときから年を取らぬのだ。ただ、それは見た目だけのこと。寿命が尽きるときは等しく訪れる」 「年を取らない……」 「毎夜絵を見るだろう。私とそっくりな、肖像画」 「そっくり? あれはサイラスではないのか」  驚きのあまり言葉遣いもぞんざいになるが、サイラスが気にする様子はない。 「あれは父だ。父が生きているうちに描かせた。五十は超えていたはずだ」 「馬鹿な。せいぜい二十歳ぐらいにしか見えない」 「そう、今の私のようにな?」  ニヤリと笑うサイラス。アディスレーンは今年で二八になる。それより「十は上」と言うなら、サイラスは四十近いことになる。 「気味が悪かろう?」 サイラスの表情がわずかに曇る。アディスレーンは慌ててサイラスを抱きしめた。 「いいえ、少しも」 「我が一族は老いを隠して生きてきたのだ。老いを哀れと思い醜いと思うがあまりに、肉体の衰えを止める異形の者に成り果てた。本当は私こそ誰よりも醜い。だからもう、私で終わりにしようと決めたのだ」 「終わりにする?」 「妻を娶り、子を()す。もう、そんなことはしない。一族は私の代で終わり。そういうことだ。だから私はこの城の中で、恋もせず果てていくのだと、ずっと」サイラスはアディスレーンにしがみつくように抱き返した「だが、恋だけなら許されるだろうか。子を生すことのできぬ相手を愛してしまったのは、それだけは許されたと思っていいだろうか」 「いいえ……いいえ、サイラス」  アディスレーンはサイラスの両肩に手を置き、ぐっと引き剥がした。それからサイラスと視線を合わせるように身をかがめた。 「サイラス、あなたは恋をしていい。相手が男か女か、どこぞの姫君か従者か、そんなことは関係ない。あなたは最初から許されている。誰を愛してもいい。――ただ私は、その相手が私であればいいと思っている」 「アディスレーン」 「はい」 「私はおまえを――愛してもいいのか?」 「いまここで、そんなことを聞く?」  二人は顔を見合わせ、改めて口づけを交わした。 その瞬間、城の薔薇の蕾がひとつ、花開いたのを知る者はいない。 (完)

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