1 / 61
第1話 玖月
使い捨てゴム手袋した。よし!
その上から白の綿手袋した。よし!
マスクは二重にした。よし!
世界的なウィルス感染が大流行してしまい、全世界の人々の間では、マスクや手袋が必須アイテムとなっている。
いや、なっていた…
今はもう、過去形である。
「手袋していても、マスクを二重にしていても、今はもう、白い目で見られないから本当に助かるぅ〜」
荒木 玖月 は独り言を言いながら玄関前の鏡で全身をチェックした。
少し前までは、全世界中の人々がマスクや手袋をしていたが、ウィルス感染が収まった今では、マスクや手袋をつける派は少数である。ほとんどの人は、マスクや手袋を外して生活している。
だけど、夏でも冬でも季節に関係なく、マスク姿で浮くことはなくなっているのも、事実だ。マスク姿の人を日常的に見かけても、誰も気にせず何とも思わないだろう。
鏡に向かいヒラリとターンをした後、玄関を出てそのままスーパーへと向かう。
この辺はいわゆる高級住宅街。分相応よりだいぶ背伸びをしているところに玖月は住んでいる。
今向かっているスーパーも高級だからお値段もお高い。だけど、贅沢をしなければ特に問題なく住んでいける。住み心地はいい街だ。
明日は週末なので仕事は休みとなる。今日の夜から好きなものたくさん作って、食べて、映画でも観て過ごそうと玖月は決めていた。
スーパーでは少し奮発してあれこれと買い込む。最近好きなお酒も多めに買おうと決めていた。
(この辺のラインナップ好きなんだよな)
このスーパーには、充実したお酒のコーナーがある。そこに置いてあるものを選ぶのが好きだ。最近は、ここでよく目にする日本酒を目当てで買っている。フルーティーで軽やかな味わいのものや、スパークリングな日本酒もあった。
(あれ、この会社って…うちで契約してる会社だったんだ。知らなかった)
目当てのお酒のラベルを確認し、ニ本をカゴに入れた後、明日も休みだし、買い溜め!と思い、もう一本追加で入れた。買い過ぎかとも一瞬思ったが、まあいいかと思い直す。
三本まとめて購入したので、パーティー用だろう可愛らしい透明のビニールに店員が入れてくれた。Let’s party!と書いてある。
パーティーではなく、ひとりで飲むからパーティー用ラッピングが少々虚しい。
スーパーの外に出たら雨が降っていた。
傘を忘れたから雨宿りしていると、目の端にスーツ姿の男がチラッと映る。
同じく彼も雨宿りをしていた。
エコバッグとお酒三本を手に、玖月は
ついてないなと思いながらも、急ぐことは特に無いしと雨を眺めていたら、少し離れた場所に立つスーツ姿の男から声が聞こえた。電話をかけ、誰かに指示を出しているようだ。
「…ああ、そこにいる。わかった、すまないな。よろしく」
男が通話を終えたようだった。
無意識に目を向けると、ばっちり目が合ってしまった。
「それ、好き?」
「は?」
「そのお酒、好きですか?」
それ、と指をさされたのは、パーティー用の袋に入っている三本のお酒だった。
「あ…はい、好きですねこれ。この辺はここのスーパーしか置いてないんです」
余計なことも言ってしまったと思ったが、相手は特に気にすることもなく、こっちを見て笑っている。背の高い大きな男は、仕立ての良さそうなスーツを着ている。
「雨、急に降ってきましたね。すぐ止みそうだけど」
「そうですね…傘、忘れちゃって」
そう玖月が答えた後すぐに、玖月の足元に突然傘がポンっと転がってきた。傘を転がすように投げつけたのは、その男だった。
「あ、ごめんね。俺、使わないからさ。それ、あげるよ」
「はぁ?」
傘を渡すにしても、あげるにしても投げることないだろうと、玖月は呆気に取られている間に車が目の前に停車し、男は後ろのシートに乗り込んでいる。
「じゃあね」
そう言い、車と男は去って行き、玖月は足元に転がる折りたたみ傘を呆然と眺めていた。
◇ ◇
料理を作りながら、オンラインチャットの飲み会に参加する。「突然だけど、これかからどお?」と誘われたからだった。
仕事もプライベートもオンラインか、と玖月は苦笑いするも、他にやる事はなくひとりで映画でも流し見するかと思ってたので、すぐに「参加する」と返事をした。
プライベートと言っても、飲み会のメンバーは家族。それも苦笑いするしかない、玖月の交流関係は狭く友人は少ない。
「それで、どうしたの?その傘は」
笑いながら母の陽子 が玖月に尋ねる。もう既に飲んでいるようだ。
「置いてきたよ。知らない人の物なんて…嫌だよ。それに失礼だよ」
「なんだよ、お前に渡したんだろ?困ってるんだって思ったんじゃねぇの?その人」
そう言うのは兄の知尋 だ。こちらも既に飲んでいるようだ。
「だってさ、やっぱり無理だもん。知らない人だよ?」
「いい男だった?」陽子が言う。
「どんな感じ?」続けて知尋も聞く。
「そんなのわかんないよ。よく見てないし…でも、傘を投げて渡すなんて、ないよね」
「よく言うよ!その傘を置いてきたくせに」
「本当よ、ねぇ」
と、続けて二人に言われてしまった。
「仕方ないじゃん…知らない人の物なんて触れないよ」
玖月は潔癖症だ。
だからあの男が好意で投げて渡してきた傘だとしても、潔癖症から受け取ることも、触ることも出来なく、そのままスーパーに置いてきてしまった。
世界的に流行したウィルス感染予防のためのマスク、手袋の使用の流れで今でも着けているわけではなく、玖月の場合は潔癖症によるマスク、手袋の使用だった。
ウィルス感染が流行する以前は、世間的にマスクや手袋していると怪訝な顔をされ、時には白い目で見られていた。特に、夏にマスク、手袋を使用しているとあからさまに嫌な顔をされたりすることもあった。
それでも最近はウィルス感染がほぼ終息したため、マスクや手袋を外す人が多い。
それでもまだマスク姿の人は、少なからずいるため、玖月が特別目立つことはない。
のびのびとマスクや手袋を使用できる環境は、玖月にとってはありがたかったのだ。
潔癖症は、汚れを過剰に気にすることであるが、玖月の場合、現実に汚れているかどうかが問題ではなく、本人が作った『潔癖症マイルール』によるものだとわかっている。
外食は出来なくもないが、調子のいい時だけ。それも、アルコール除菌シートを持ち歩き、消毒することが通常だが、やむを得ない場合は消毒なしでも触れることが出来る。外でコーヒーを飲んだり、決まったお店でランチをとることは出来ている。
これがいわゆる玖月の潔癖症マイルールというやつだ。なんとも都合がいい。なので、周りからは気まぐれだと思われている。
ただ、今はそのマイルールがひどくなっていると自分でもわかっている。なので、いつもよりも過剰に防御していた。
「よし出来た。お待たせ、乾杯する?」
親子の仲は良く、こうやってオンラインで飲み会をする事も最近は多くなってきていた。外食が気まぐれにできるレベルの玖月だから、オンラインでの飲み会と、周りが合わせてくれているのは知っている。
玖月がキッチンからリビングに移動しながら二人に尋ねると、「もう既にやってますけど」という声が聞こえる。家族全員、皆かなりお酒は飲む方だ。
「乾杯してよ、ほら。かんぱーい」
「はーい」
「はいはい」
今日はいっぱい食べて飲もうと玖月は決めている。
「あ、聞いて。このお酒さ、うちで契約している会社だった。好きでよく飲んでたんだけど、今日初めて知ったよ」
ほら、と玖月が画面にお酒のラベルを見せる。二人が画面をじっと見ているのが何だか面白い。
「おお!株式会社アーネスト」
「あー、岸谷 社長のとこか」
二人共、この会社はよく知っているので、お酒のラベルに書いてある会社名を見て驚いている。
陽子は最近、ここの社長とパーティで会ったと言い、知尋は「俺はジムが一緒、向こうは俺のこと知らないと思うけどね」と言っている。
「センスあるよねこの会社。ここが出してるお酒好きなんだ。スパークリングな日本酒とかもあって美味しいんだよ。僕もその人に会えたら伝えたいなあ。すごく美味しいですって」
『うちで契約してる』など、共通の話ができるのは、三人とも同じ『荒木家事代行サービス』で働いているからであった。
『荒木家事代行サービス』は、一般的な家事代行サービスとは違い、クライアントは芸能人や一流企業の社長、政治家など、プライベートを完全に守る人たちをターゲットにしているため、高級家事代行会社と巷では呼ばれていた。
玖月が好きなお酒を販売している会社、株式会社アーネストは社長を始め、その会社方も家事代行サービスを使ってくれているのでお得意様であった。
『荒木家事代行サービス』は陽子が社長で、知尋はチーフオフィサー、玖月は人材コーディネーターをしている。コーディネーターとはいうものの、要はお客様の所へ派遣する人をブッキングする事務処理である。
社長の陽子と知尋が会社全体の経営を仕切っているから、いわゆる家族経営であるが、会社の業績も良く大きく成長しているため、その他優秀なスタッフもたくさん働いていた。
その多くのスタッフの中でも、最近知尋の妻になった渚は営業担当で最も優秀であり、かなり多くの仕事を取ってきていて、頼もしい存在である。
「そういえば、ちー兄。今日、渚 ちゃんは?」
いつもオンライン飲み会には参加している元気な彼女の姿が見えない。玖月が知尋に尋ねた。
「今日はライブ行ってる」と知尋が言うと
「元気だね、相変わらず」と陽子が言い、
「アクティブだよね」と、玖月の声も続く。
「そういえば、玖月のこと心配してたぞ。なんかあったのか?」
知尋に聞かれ、ギクッとした。
渚にだけは、玖月が彼女と最近別れたことを伝えていたからだ。いいきっかけだと思い、玖月は失恋の報告をする。
「あー、実は彼女と別れちゃってさ…」
「おおう!」
「おっと、詳しく!」
二人は拍手しながら楽しそうに聞いてくる。まさにこれから酒のつまみになるのだろう。
別れた理由は、玖月の潔癖症が原因だった。デートを繰り返し、彼女の部屋にも何度か招待されていた。
その日は、彼女の部屋で初めて手料理が出てきたが、食べることが出来なかった。
ジッと料理を眺めていると、長い髪の毛が料理に入っていたのを見つけ、悲鳴をあげそうになった。何とか悲鳴は堪えたが、今度は言葉を発することが出来なくなり、無言が続いてしまい、その日は結局そのまま自宅に帰った。
それから彼女とはギクシャクが続き、つい最近フラれてしまった。
「玖月さ、本当に好きだった?」
母の陽子が画面越しに冷めた目でみているのがわかる。
「えっ?好きだったよ?」
「本当かよ。何度も彼女の部屋に行ってたんだろ?泊まったりしてたのかよ」
そう兄の知尋に聞かれた。玖月の家族はオープンなのでお互いの恋バナもよくしている。なので、質問自体は珍しいことではないが、二人は恐らく潔癖症のことを言っているのだとわかっている。
「えっと…泊まったりはしなかった。必ずその日には帰ってたな。やっぱり泊まりは難しいよ。気になっちゃうもん」
「じゃあ、キスとかそれ以上はしないんだな」
「キスはね、する前にマウスウォッシュや歯磨きをしようってことにしてた」
二人は玖月のその言葉を聞き「うわぁ引く」「ムード潰し」など言っている。
マウスウォッシュをしてキスは何とか出来たけど、キスより先はできる気がしなかった。何度かトライしてみたけど、玖月がどうしても出来ず先に進めなかったからだ。服を脱いで抱き合うなんて、考えられない。やっぱりダメだといつも謝っていたが、それがフラれた原因のひとつでもあるとわかっている。
「それにしてはさ、そんなに落ち込んでるように見えないけど?だから、本当に好きだったのかって聞いたのよ」
画面の向こうで、新しいお酒を作っている陽子に聞かれる。カランカランと氷の音が聞こえるので、ハイボールを作っているのだろう。
「落ち込んでるよ?だって、フラれたんだよ?この悪夢のマイルールがいけないのはわかってるんだけど、それでもいいって言われて付き合ってたからさ。でも、彼女には悪いことしたと思ってるけど」
付き合って欲しいと告白され、潔癖症だと伝えた。それでもいいよと言われ付き合っていたが手も繋がず、キスも数回しかしない。何が楽しく、自分のどこが好きなのかと問われるようになり、一緒にいる意味がわからないと最終的にはフラれてしまった。
あの日、せっかく作ってくれた料理に手をつけず、帰ってしまったのは本当に悪かったと玖月は思っている。しかし、身体が動かなかったからどうしようもなかった。
そう二人に伝えると、知尋は爆笑し、陽子からは、女なら屈辱的だったと思うと呆れられた。
玖月のマイルールがわからない人には伝わらないと諦めているが、こうも言われると悲しくはなってくる。
「俺だったら、毎日でも泊まって朝までガッツリだな。好きになるってそういうことよ、玖月ちゃん」
爆笑している知尋はそう言い、今日の酒は美味しいとゴクゴク飲んでいる。こちらはビールをひたすら飲んでいるようだ。
「私も知尋に一票。この年でも恋はいいもんだって思うわよ?好きになったらとことん一緒に居たいって思うわ。潔癖症でもそれは同じことだと思うけどね」
陽子は玖月が幼い頃に離婚しており、女手ひとつで兄弟を育ててくれた。だけど恋には積極的でボーイフレンドが途切れず、必ず誰かしら恋人はそばにいるようだった。
「うわぁ…親のそういうの聞きたくない」
「俺も…陽子さんのは聞きたくないな」
なんだかんだ言いながらお酒が進んでいく。スーパーで買ったあのお酒はやっぱり美味しい。
本当はひとりが好きだし、恋人をつくってデートするとかは面倒で億劫だが、結婚したいという気持ちが強く、実は焦っている。
結婚しないと一人前に見てもらえない、知尋のように一人前になりたい。ずっと玖月はそう思って過ごしていた。
「とりあえずさ、高坂 社長にまた慰めてもらう。来週入ってるよね?」
「おい、玖月…仕事をプライベートに使うなよ」
「プライベートに使ってないよ。高坂社長の所で、掃除して料理を作る仕事だよ?その仕事だと落ち着くんだけだもん。それに必ず一緒に食事しようって言ってくれて、二人で食べてると潔癖症の症状も和らいでいくんだ」
「それが、プライベートで使うって言ってんだよ。そんな中途半端なことするなら行くな。別の人に頼めばいい」
知尋が厳しい声を玖月に投げかけている。
人材コーディネーターをしている玖月だが、唯一ひとりのお客様にだけ、家事代行の指名をもらっていた。
お客様宅に出向き、キッチン周りの掃除と料理を作る家事代行をしている。
「不思議よね、なんで高坂さんには色々と心を許せるのかしら」
「お前の潔癖症マイルールって本当どうなってんの?たまに俺との食事を断る時あるじゃん。それなのにあの高坂社長だけは大丈夫なんてな」
「信頼があるからだと思う。それに必ず高坂社長の家で、僕が料理を作ってそれを食べるから安心していて、大丈夫なのかも」
「俺は信頼ないのかよ」という知尋の声が聞こえ、陽子と二人で笑った。
「高坂社長って陽子さんと同じ年くらいでしょ?ダンディでさ、余裕があってお父さんみたいな感じがするんだよね。安心するっていうかさ」
「私より年上ですぅ。勝手にお父さんなんて言われて高坂さんかわいそうよ。まだまだ現役の色男じゃない。奥様もいなくて、今は独身だし。私は高坂さんとは夜ご飯を外で食べたりするよ?あの人も仕事柄、外食多いみたいだね」
「へぇ、陽子さんやるぅ」と知尋と二人で陽子を揶揄っていた。
「しかし、お前の部屋はいつも綺麗だよな」
画面越しに部屋が見えるのだろうか、知尋がジッと見ているのがわかる。
玖月は自分の生活空間が乱れるのが嫌なので、頻繁に掃除をし、整理整頓をしている。潔癖症だからしている傾向もあるが、
掃除や洗濯、料理などの家事全般が好きで得意だった。
以前は家事代行サービスの現場スタッフとして玖月は働いていた時もあったが、潔癖症の症状が出始めた為、知尋が現在の仕事を玖月に与えた。
真面目な性格の玖月なので、きっちりしっかり仕事は出来ていた。
なので月に一回、指名してきたお客様宅に現場スタッフとして出向き、それ以外は事務処理の仕事を在宅ワークでこなしている。
「気分転換に引っ越し、しようかな」
「引っ越しする前に遊びに行かせて!」
元気な声が飛んできた。渚がライブから帰ってきたようだ。知尋の隣で飲み始めようとしている。
渚の参加で賑やかになり、深夜までオンライン飲み会は続いた。
ともだちにシェアしよう!