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第2話 玖月
オンライン飲み会から数日後、陽子から急ぎの電話がかかってきた。
「玖月、急なお願いなんだけど、今から家事代行スタッフしてくれない?」
「今から?僕が?」
陽子が玖月に客先に出向くようにと言う。現場はNGとされている玖月に行けと言うのはよっぽど緊急のことだとわかる。
わかるけど、急すぎるし難しい。しかも今、時刻は夕方近くになっている。
「なんで?急すぎるよ。今からなんて」
「スタッフがどうしても一人足りないのよ。最近、うちの会社も忙しくなってきたからわかるわよね?お客様からのご要望が多いけど、スタッフが足りないのよ」
会社に依頼が殺到し、嬉しい悲鳴を上げているのは知っている。新しいスタッフも多く雇っているが、それでも足りないと陽子は言う。
「わかってる。だけど、僕が難しいのもわかってるよね?無理だって…」
「よくわかってる!だけど、あんた昨日、高坂社長の所に行って、随分癒されてきたって言ってたじゃない。まだ現場は難しい?」
確かに昨日はお客様の所で、食事も一緒に出来た。それに今は潔癖症の症状も安定しているので、仕事と割り切れば問題なく家事代行は出来ると思う。
「うーん、本当に難しいんだけど…わかった…やってみるよ。依頼は何?」
「掃除!掃除なの、掃除だけなの。あんた掃除は一心不乱に出来るじゃない。一箇所だけ掃除して欲しいって依頼なの」
陽子がこんなに譲らないとは、やはり今、家事代行スタッフとして動けるのは玖月しかいないらしい。新しいスタッフが育つまで、こんな状況はこれからも続くだろう。
それに、社長である陽子が頼むなんて、よっぽどのことだ。依頼してきた相手はどんな人なんだろうか、しかも掃除で緊急なんて珍しいと考える。
「わかった。場所をメールで送って。それからすぐ向かうって連絡入れといて」
「OK、玖月助かる。本当にありがとう。そしたら…依頼人と場所聞いたら驚くかもよ。ま、とりあえずメールで送るから、それと今日は終了したらメール連絡だけでいいわよ」
それだけ言うと陽子は電話を切った。とにかく行ってくるかと、玖月は準備をしながら陽子からのメールを確認し、動きが止まった。
依頼人は、株式会社アーネストの岸谷社長であり、場所は玖月が住むマンションの最上階だった。
「えっ!ここのペイントハウス?」
このマンションの最上階にペイントハウスがあるのは知っていたが、岸谷がそこの住人だったとは知らなかった。
最近三本まとめて買ったお酒を思い出す。パーティー用にラッピングしてもらったお酒、それは岸谷が経営する会社が販売していたものだ。
玖月が好んで飲むお酒を販売する会社の社長が、こんなに身近に住んでいたなんて、世間は相当狭いのかもしれない。
掃除グッズをバックに詰め込み、マスク、手袋、メガネまで付けてガッツリ潔癖症対策をする。身支度を整え、駆け足で最上階のペイントハウスまで行く準備をした。
ペントハウスは、居住者専用のエレベーターで行くことになる。そのため、玖月は一度一階まで降りて、コンシェルジュ前を通り専用エレベーターで行くことになる。
コンシェルジュには話が通っており、荒木家事代行サービスと伝え、身分証を見せすんなり通ることが出来た。
ペイントハウスまでエレベーターで上がる
エレベーターを降りるとドアがひとつ。
インターフォンを押し待つことにした。
「はい!」少し慌てているような男の声色が聞こえる。
「荒木 家事代行サービスの者です」
それだけ言うとインターフォンが切れたが、そのあと中々出てこないため、玖月は不安になる。もう一度インターフォンを押そうとした時に玄関のドアが開いた。
「家事代行サービスの者です。荒木 玖月 と申します」
深々とお辞儀をしたところで、さっきのインターフォンと同じ男の声が頭上から聞こえる。
「あれ?君、この前会ったよね?」
お辞儀をした玖月は目線を上にあげると男と目が合った。長身の男が玖月を見下ろしている。
この前と言われ玖月はジッと男を眺めていると、「ほらわかる?」と男はニッコリと笑い、自分を指差してした。
「あっ、スーパーの…」
「そう」
スーパーで雨宿りしていた時に、傘を投げて玖月に渡してきた男だ。この前のイメージとはかなり違う。近くで見ると意外と筋肉質で大きな人だという印象だ。
「とりあえず、家に入って」
「あ、はい。失礼します」
偶然がたくさん重なり唖然としながらも
玖月は、玄関先で新しい靴下に履きかえ家の中に入る。
初めて入ったペイントハウスは、解放的であり、大きめの家具や高級感溢れる内装だが、どこか安心出来るような、安らぎを感じる部屋だった。だが、ところどころ荒らされたように、物が散乱としている。
やるべきことをやらねばと思い直し、
玖月は改めて名刺を手に自己紹介をする。
「荒木玖月と申します」
「岸谷 です。荒木さんって、荒木陽子さんのご家族?」
「はい、社長の陽子は母です」
「そうなんだ。あ、名刺…ありがとう」
名刺を渡した時に手元を見られた。ゴム手袋の上から綿の手袋をしているのを、ジッと岸谷は見ていた。
「あの…」
「あっ、そうだ!ちょっと聞いてくれる?犬がさ…ほら、ここ。めっちゃめちゃにしやがってさ、笑っちゃうよな」
はははと、岸谷が大声で笑っている先を見ると、犬がしょんぼりとしながらこっちを見て座っていた。
犬の先を見ると、キッチン近くの植木がひっくり返され、土の上で犬が遊んだ形跡があった。よく見ると犬は泥んこで、部屋には土やティッシュやダンボールが散乱している。
「…ああ、やってしまいましたね。しかも結構派手にやってますね。ダンボールもですか」
以前、現場スタッフとして働いていた時には、犬のイタズラの後始末をよくしていた。派手にやったとはいえ、今回の光景も玖月には、見慣れているものだった。
犬は植木をひっくり返し、ティッシュを引っこ抜き、ダンボールを齧ったりしてたんだなと、瞬時に理解をした。
「俺が昨日仕事が遅くてさ、帰ってきた時はコイツも静かに寝てたんだけど、さっき起きたらこんなにしやがって…なっ?こら!ダメだぞ〜」
岸谷は「こら!」と口では言うが、わしゃわしゃと犬を撫でまわし可愛がっており、甘やかしているのがよくわかる。なので、犬の方も怒られてるのか、褒めて撫でられてるのか、わからないような顔をしている。
「わかりました。すぐ始めます」
エプロンをして、早速取り掛かろうとする玖月に岸谷が声をかけた。
「ちょっと待って。もし、難しいようなら無理しなくていいよ」
潔癖症だというのがわかったのだろうか。それとも、事前に陽子が岸谷に伝えていたのだろうか。
いずれにしても、目の前の男が無理するなと言っているのは、玖月の潔癖症を知っているような口振りだった。
「それはうちの社長が、何か言ったからですか?」
「えっ?荒木社長?何も言ってないよ?」
「では、なぜ無理しなくていいと?」
「あっ、いや…君がさ、気にしてるんじゃないかなって。触るの嫌じゃない?」
岸谷の視線は玖月の手元をさしていた。やっぱり、観察されていたんだと他人事のように感心する。手袋を何重にもしているのはやはり不自然なんだろうか。
ただ、家事代行を呼んでおいて、家にきたスタッフに「掃除が嫌だったら無理しなくていい」と言うのはおかしな話である。
潔癖症を思っての発言なのかもしれないが、それで「はいそうですか」と言い引き下がることは出来ない。それなら何のために来たのかということになる。そう思った玖月は、ムキになり答えた。
「いえ、大丈夫です。ここの掃除でよろしいでしょうか?」
「うん…お願いしたいけど…本当に大丈夫?無理しないでくれよ。俺はもう大丈夫だけど、気にする人は気にするから、それはわかってるからさ」
途中、岸谷が何を言っているのかよくわからなかったが、玖月は戦闘態勢で来ているのだ。プロの仕事を見せつけてやろうと意気込み、会社ロゴが入ったエプロンを付け、一心不乱に掃除をスタートさせた。
「じゃあ、コイツを風呂に入れてきてもいい?」と泥だらけの犬を抱き上げている岸谷から言われ「どうぞごゆっくり」と答えてからは、更に急ピッチで荒れている部屋をピカピカに掃除をした。
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