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何はともあれセルフケア その1

 市長室付けとして辞令を拝したとき、モーは「こちらの世界」に戻ってきて以来、ようやく己の本領を発揮する機会に恵まれたと思った。  役職としては秘書だが、広報担当官のヴェラスコ曰く「とにかく彼に危険が及ばないか見張っていてくれ」とのこと。登退庁の際の送迎も命じられた(これに関しては市長が「大袈裟すぎるし、人遣いが荒いと思われたくない」と嫌がった事もあり、頼まれたときにのみ行っている)  遅れてきた9.11アベンジャーズと言えば聞こえはいい。要するにメキシコ系移民二世として背負わされた罪悪感と貧困から、高校卒業と共に海兵隊へ入隊して10年と少し。ほんのちょっぴり額に傷跡が残ったくらいでアフガニスタンから戻り、悪夢に悩まされることもない。おまけに軍を退いた後は、社会復帰事業の一環でさっさと市の職員に滑り込めた。模範的な退役軍人、そして移民の子のキャリア形成だと、近所の友人達やかつての戦友達は、指を咥えて羨ましがる。全く以てその通り、これ以上何を望むことがあると言うのか。 「そんな風に言うけどな。本当は欲しかったんだろう」  ハッと鼻を鳴らし、小馬鹿にしていることを隠しもせず口元を歪めて見せたのは確かゴードンだったはず。 「他人からの賞賛と評価、そしてねぎらいの言葉を、喉から手が出る程な」  いざとなれば昏倒させることなど容易いだろう。だが彼のぶっきらぼうで歯に衣着せぬ物言いと、横柄な態度は、モーを簡単に怯ませる。 「こちら市長室……少々お待ち下さい……はい、この前もお電話下さった、あー、クリフトンさん……まだ消されていない? 先日お電話頂いてすぐに都市計画部へ連絡したんですが……はあ、勿論、不愉快で不適切だと思いますよ、人の家の壁にカントなんてスプレー書きするのは、余りに不適切だ」 「朝っぱらから何の話だ。ここは市庁舎だぞ、風紀ってものを考えろ」  ゴードンはノックというものを軽視している。全くしないか、今のように扉を殴るような勢いで1発拳を叩き付けるだけ。  いいスーツを身につけていても隠せはしない。のしのしと大股の歩き方や、がっしりした骨格を目にしたとき周囲が彼に抱くのは、このイーリング市から少し東へ行った辺り、マッキール・ヒルに林立する鉄工所で散る火花。煤けたヘルメット、溶鉱炉の熱で焼けた顔にすり切れたネルシャツと言ったところ。ユダヤ系だと聞けば、なるほどその押しの強さは、と皆また新たな偏見を眼差しに宿す。  ぼそぼそと応対を続けるモーから受話器を奪い、ゴードンは刺々しい態度を崩さない老人へがなり立てた。 「家の壁におまんこの俗語を書かれた? 何区です……そんな無駄なことを。地域の再開発はもう決定しましたから。と言うか、おたくの自作自演じゃないでしょうね? 今時カントなんて言葉を使う奴はいませんよ、カントはとっくの昔に死語になってる。若い子はあそこのことをプッシーって呼ぶんですよ、俺らの世代ですらそうなのに」  がちゃんと乱暴に受話器を置いても、悪びれることは一切ない。40を過ぎたかどうかの年齢だが、ロビイストとしては百戦錬磨の強者だ。政治コンサルタントのエリオットに連れて来られて一年で、もうオフィスを我が物顔で歩き回っている。 「モー、あんな卑屈になるなよ。今の話し方は絶対白人だな、ああ言う野郎はスペイン訛りがある相手だと、少しでも甘い顔して見せたら徹底的に付け上がるぞ」  モーが背中を丸め、こくんと頷く前に、「市長はエルと?」と畳み掛けられる。 「多分……俺が出勤してくる前にはもう中にいたので」  それ以上の説明をするのが嫌で、デスクに設置してある年季の入ったインカムのボタンを押す。応答されるまでに、部屋の奥に据え付けられた分厚い扉越しにも、ガシャンとかドタンとか、激しい物音が聞こえてくる。 『あ、モー……?』 「ゴーディがここにいますが」 「いいってハリー、ごゆっくり!」 『わるい、っ、す、すぐ終わらせる、から、ぁ、あっ』  艶めかしい溜息を、テキストメッセージの最後に絵文字を打ち込むかの如く吐きつけ、市長は回線を切断した。  扉に金色のプレートで燦然と輝く「市長室」の文字を横目に、ゴードンは肩を竦めた。 「あんな痩せてるのに、エルも激しいよな」 「それでご用件は」 「用があるのはエルの方。昨日のテーマパークの視察の件で……あいつが早漏であることを祈るよ、待たせてもらうぞ」  恐らくこの事態も想定の内だったのだろう。マックブックを抱えるのと反対の手には、市庁舎の向かい筋にあるスターバックスで買ったらしい、トールサイズのタンブラーが携えられている。 「いつになったらここのコーヒーサーバー、もうちょいマシなもんに交換するんだろうな」 「予算的に厳しいかと」 「もう就任して半年だろう。今のところハリーが通せた目新しい改革って、保護動物の殺処分を停止した位じゃないか。そろそろ思い切ったことやらなきゃ、次の選挙が怪しくなるぜ」 「猫を殺すのはいけない事ですよ……」  辿々しくタイピングしながら、モーは先程から取り組んでいたチャットアプリの返信を何とか完了させようとしていた。もう事務職になって3年なのに、ブラインドタッチは習得できていない。そもそもこの役立たずで太い指はキーボードの上でしょっちゅう迷子になり、望んでいないキーを押す。  ぽこ、ぽことあぶくの如く、次々とデスクトップモニターのブラウザに連なるチャットメッセージは、最終更新が3分前。直に話した方が手っ取り早いと判断したのだろう。予想通り、紙ファイルを小脇にしたヴェラスコが、開いている扉をノックする。 「市長は?」 「エルとファックしてる」 「あ゛ーっ、遅かったか!」  憎たらしいゴードンの澄まし顔には悲鳴がぶつけられる。天を仰いで癖毛を引っ掻きまわしながら、へたった応接セットにどすんと腰が下ろされた。 「何か最近、太ったか?」 「寧ろ消化不良だよ」  隣で音を立ててコーヒーを啜っているゴードンに肘打ちを喰らわせ、ヴェラスコは切れ長の大きな目をしょぼつかせた。 「て言うか、モー、てっきり君がヤってたのかと。いつまで経ってもチャットの返信がないし」 「すいません」  年が近いし、彼もコロンビア系の市民として差別に直面して来たから、比較的会話がしやすい、と思おうとしている──尤も、ヴェラスコの両親は人権派の弁護士として名高い成功者なので、わざわざ幼少期の思い出を突き合わせて気まずい空気を作る真似はこれまでしなかったが。 「困ったなあ。このスピーチ原稿、急いで見て貰わないと」 「定例記者会見か」 「いや、公立高校の教師の基本給ベースアップの分」 「そんなの余裕だろ、メールしとけよ」 「一昨日から4回位送って一度も開封通知が来ない。昨晩送ったメールは本文全部太文字イタリック体、フォントサイズを20に変えて赤文字で『早急にチェックお願いします』って追記しといたのに……君の所にもCCで飛ばしたよな、モー」 「確か来てました」  3つ位開かれている添付ファイルの中には含まれていなかった。メールフォルダを確認しなければ……市長側近として、1人で物凄い量の仕事を捌いている男だ。彼名義のフォルダは意図的に無視しなくても、あっという間に未読メールが溜まってしまう。マウスをスクロールして探している間に鳴り響く内線の着信音が、余計に気を逸らせた。 「はい、こちら市長室……市長は今取り込み中ですが、ええ、公園管理局から、至急……確認しますので」 「貸して」  もたもたしているモーを見かね、ヴェラスコは腰を上げた。 「もしもし、ヴィラロボスですが。市長は、多分トイレでも行ってるかな……いや、今日は特に抗議運動の予定は聞いてない。ソランに確認は取ったか?……届出を調べさせて。申請内容が違うのかも。それか違う日付にリマインドしてあるか……無許可だったらすぐ事情聴取へ寄越すようポーリーに伝えるから……いいか、申請内容とリマインダーだぞ」  フックは2回ほど指で乱暴に叩かれてから、受話器を受け止める。窓のブラインド越しに差し込む朝日は、ソファへ戻る後ろ姿のくたびれ具合を可哀想なほどに強調した。 「どいつもこいつもアホしかいない」 「まともに機能してる行政で俺らが雇われる訳ないだろ」  原稿見てやるよとファイルを受け取りざま、ゴードンの視線は、ヴェラスコが光のない目で眺めるドアに向けられた。 「ぅあ……!もうやだ…っ!」  防音扉に替える為の予算稟議を提案したら、目の前の辣腕達は怒髪天を突くだろうか。それとももろ手を挙げて賛成するか。兎角政治と言うものに疎いモーですら、今回ばかりは後者であると確信が持てた。

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