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何はともあれセルフケア その2

 せっかく朝の4時前に起き出して雑務を片付けたのに。26番通りの渋滞で捕まり、気付けばこんな時間だ。足早に廊下を突き進み、左腕のオメガを確認し、思わずエリオットは憂いの溜息を吐き出した。  あそこの信号はつい最近修理をした筈だが、まるで呪いのように不調を来す。あと2ブロックで市庁舎の駐車場入り口まで辿り着けると言うのに30分近く待たされたのだ。よっぽど愛車のボルボを乗り捨て、歩いてやろうかと思った程だった。  もしも市長が「早く来い」と電話口で急き立てたならば、本当に誰か職員を呼び付け、運転席で待たせていた。なのに何度ハリーのスマートフォンへ着信を入れても、留守番電話サービスに繋がるばかり。クラクションと周囲の喧騒、そして電子的な発信音が、未だ耳にこびりついているような気がしてならない。  大方、またオフィスに篭ってファックしているのだろう。相手はヴェラスコかと当たりをつける。ここ数日ハリーは日々のルーティンから逃げ回り、有能な広報担当官は散々フラストレーションを溜めていた。  若い市長には若いブレーン達を。ハリー・ハーロウは、この閑静なベッドタウンを名乗る保守的なイーリング市の歴史を塗り替えた。36歳の歴代最年少市長。初のカトリック教徒たる市長。そう言えば政治顧問に黒人を雇った初めての市長かもとの自嘲は脇に置き、遂にゲイであることを隠さないと決めた市長が誕生したことは、称えられて然るべきだろう。  様々な逆境を跳ね除け、現職と3人の候補者を破るだけの美徳を、ハリーは有していた。溌剌としていて、寛大で、ユーモアのセンスに溢れ、とてもハンサム。  つまりまだまだ性欲が有り余っていて、誰彼構わず男のモノを追い回し、口説き上手で、他人を片っ端から欲情させるから気を付けろ。選挙アドバイザーとしてシンクタンクの友人から引き合わされる前に、そう耳打ちされた時は、完全に甘く見ていた。幾ら青くても、市政を司る立場になったらクルージングも控えるだろう。好色がお家芸の民主党員と言え……  楽観が打ち砕かれたのは、栄光が始まるその日の事だった。当選後の記者会見が終わった夜、後援者が開いた私的なパーティーで、メンズ・ストリッパーが呼ばれたのは構わない。だがその後、消防士のコスチュームを着たヒュー・ジャックマン似のハンサムを家へ連れ帰ろうとした時は、流石に待ったを掛けざるを得なかった。  君の体は今から市民のもので、市民への奉仕が仕事になるんだと諭せば、彼はこの市に住んでるよ、一晩中尽くさないと、と返される。当意即妙な受け答えの技術は、政治家として申し分がない。 「まあ、これも最後の晩餐か……だが家はやめておけよ、ホテルを取るからちょっと待ってて」  渋々そう口にしたエリオットに、ハリーが目を逸らしながら漏らした呟きは、明らかに相手へ聞かせる音量で放たれた。 「でも、他にストレスの発散方法をどうしたら良いのか」  その時エリオットは、ようやく気が付いた。目の前の男は、まさか自分がこんなにも早くこの地位を手に入れてしまうなんて、一切想定していなかったのだと。  勿論、弁護士から市議会議員へとお決まりのコースを選んだ人間だ。政治の道を志す人間なら当たり前に持つ野心は抱いていただろう。けれど今回は、最有力候補だった副市長の当選を妨害しようと、犬猿の仲だった議員が票割れの為に画策した立候補の打診だった。  あの食えない老人は、自分がお膳立てした選対委員の実力を完全に見誤っていた。正直なところ、エリオット自身ものめり込み過ぎたと、今なら認めることが出来る。子飼いのゴードンや、餌をちらつかせて陣営に引き入れたヴェラスコの尻を叩いて情報を集め、倫理的に問題があると取られても仕方ない駆け引きを繰り広げ、大番狂せの勝利をもぎ取った。お陰で40になる前に政界へ食い込むと言う己の目標も達成できた訳だが。  見誤っていたと言えば、恐らくはハリー自身もそうなのだろう。彼は自分の実力を知らなかったし、恐らく今も信じていない。心構えすら誰にも教えて貰えなかったのだ。  そのまま専属コンサルタントとして彼へ雇われ親密になるうち、彼を憐れむような、慈しむような気持ちは膨らんでいった。オープンリーゲイだったエリオットが関係を持つに至ったのも、必然だったと納得している。  そうでなくても市長なんて、石を投げられる事の多い職務だった。ハリーに必要なのは、信頼出来る部下と、愛されていると言う確信だ。与えさえすれば、おのずとメッキの自信も本物になるし、生来持ち合わせたリーダーシップにも磨きが掛かる。  まあ、側近を入れ食いするのは想定外だったが、外で余計な痴情を縺れさせるよりは遥かにいい。 「すまない、渋滞に巻き込まれた」  ノックをして足を踏み入れたオフィスには、既に一味が勢揃い。皆ぽかんとした顔でこちらを見つめている──近頃の寝不足が顔に出ているのかも知れない。しっかりしなければ。出来る限り颯爽と、モーのデスクまで歩み寄る。鳴り続ける固定電話のディスプレイへ視線を落とした時には、思わず片眉を吊り上げた。 「ああブライズ。すみません、市長はトイレだと思います。ええ、モーも多分一緒に……ロッカールームで騒ぐ代わりに連れションしてるんだから、可愛いものだと思ってやってくださいよ……」  それからブラー、ブラー、ブラー。モーが小声で何事か訴えながら、騒がしい市長室のドアを指差す。人差し指を己の唇に当てて黙らせ、エリオットはそっと受話器を戻した。 「気持ちは分かるが、副市長に居留守を使うのは感心しないな」 「あんた、もう出勤してたんじゃないのか」  ゴードンが、こんなにも呆然とした声を出すのを久しぶりに聞いた。 「てっきり、ハリーといるのかと」 「魔の信号だよ。もうあそこ、信号機ごと交換した方が良いんじゃないか……資料有難うゴーディ、目を通したけれど、来園者の推移について、後でもう少し詳細を聞かせて欲しい。ヴェラ、それ昨日言ってた高校の件だね。先に確認しておくよ……」  命じられるままファイルを差し出そうとしたヴェラスコを目にして、思わず訝しさに首を傾げる。 「ハリー、奥でファックしてるんだよな?」  インカムのボタンを連打しても、皆でよってたかってスマートフォンに着信を入れても、ハリーは頑として応答しない。ノックして喚いたところで、その間にも嬌声は激しくなるばかり。まるで彼らに聞かせる事で、興奮を高めているかのようだった。  テロ対策にと数代前の市長が取り替えた扉の頑丈さを、今ほど恨む事はない。こんな時に限って合鍵は見つからず、防災用の斧を持ってくると言い出したゴードンを押し留め、結局一番体格に優れているモーがドアを蹴破る事になった。  5、6回ガンガンやったところで、ようやく「分かった、投降するから!」と癇癪半分、悲鳴半分の返事が寄越される。  半分ほど開いた扉から押し入るようにして室内を確認したが、中には誰もいない。ただ情事特有のむっとした生臭さと汗の匂い、そしてシャツのボタンを2つ外したハリーだけが残っている。  腹が立つ程にセクシーな男だった。高校生の時はフットボールの州代表選手だったんだと、事あるごとにされる自慢は、分厚い筋肉で裏付けられる。触れたら柔らかいと一目で分かるし、事実そそられてしまうのだから憎らしい。男に抱かれることへ慣れた身体だ。絶頂による弛緩と、気怠げでしどけない物腰が艶を加速させる──背後のモーが、動揺の余りごくっと喉を鳴らした。 「おはよう諸君。心配しなくても、誰もいないさ」 「窓から逃したんじゃないでしょうね」  欲情すればするほどキレる性質のゴードンが、苛々と声を尖らせる。 「それともロッカーに隠してるか」 「あの時は悪かったって、ゴーディ。あれは緊急事態だったんだ」  流石にブライズには見られたくないと、笑いながら、汗で胸元に張り付いたシャツを摘んで空気を入れる仕草。傾げられた小首で、額に張り付くブルネットがぱらりと流れるから、ヴェラスコも赤面しつつ、辛うじてファイルを突き出す真似位は出来た──あの熱っぽい緑色の瞳で射抜かれ、堕ちない人間など存在するのだろうか。 「なら、1人でやってた?」 「仕方ないだろう、最近家にも寝に帰るだけなんだから。君だって相手してくれないんだからな、エル」  顔を見合わせる男達の顔に、シュッとシトラスウッディなミストが一吹き。芳しいカルヴァン・クラインのパフュームは、匂いを誤魔化す為だけに用いられるのではない。誘惑の合図でもあった。 「それに僕は昔から、オナニーは朝からするタイプなんだ」

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