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麒麟児ちゃん、リンリンリン
困っている人に手を差し伸べなさい。ヴェラスコの両親は息子がほんの幼い頃からそう言い聞かせ、また目の前で実践してみせた。弁護士として同胞を助け、慈善事業に寄付し、ハウスキーパーの子供が熱を出したと言っても決して給料から天引きなどしない。それどころか、すぐに帰宅して側についてやるよう促す。時には病院の手配すらしてやった程だった。
彼らは精神的に成熟しており、金銭的にも不自由していなかったので、息子をじっくり育てる余裕があった。己で言うのも何だが、その成果は誇れる形で結実している。市議会議員だったハリーが市長選へ打って出るとなった時、以前勤めていたローファームから呼び寄せた生え抜き。
3年半後の再選時には主席補佐官として推薦する、あの矢のように貫く瞳を輝かせ、ハリーは確かに約束した。そして4年頑張ったら、次は州知事選へ、それから下院議員にでも。その時己は一体何者になっているだろう。
少なくとも今は、仕事の最中に電池が切れたかの如くソファの背もたれへ頭を預け、白目を剥いていびきを掻いていた間抜けに他ならない。
「ヴェラ? 大丈夫か」
まるで全てを包み込むような言葉付きと裏腹、肩を揺さぶる手は乱暴で容赦ない。終いに額をぴしゃりと叩かれた。
慌てて飛び起きた時、狼藉の主であるゴードンは、てっきり馬鹿にした顔をしているかと思っていた。だが寝起きでぼやける視界に飛び込んできた顔が本気でドン引きしているとなれば、脳は嫌でも覚醒する。
「脳梗塞でも起こしたかと思ってビビるだろ」
「最近ちゃんと寝てるのか」
「ねてます、だいじょうぶ」
恐らく自らよりも遥かにショートスリーパーのエリオットに言われたら世話はない。ウェリントン型眼鏡の向こうで、焙じ茶色の瞳が柔らかく苦笑しているのを認め、必死に言い募る。
「すいません、えっと、これですね。あの高齢者部門から提出された、そっちの資料の、どこのグラフだったか……」
「法廷でそんな指示語を濫用したら、判事に靴を投げられるぞ。コーヒーでも飲んで頭をしゃっきりさせろ。僕達も5分休憩だ」
始めたものが終わらせる。優しく呼びかけてくれていたハリーが手を振るのを合図に、エリオット達はソファを立つ。
今にも音を鳴らしそうなほど凝り固まった肩を回し、眼前を通り過ぎようとしたハリーへ、咄嗟に手を伸ばした理由は自分ですら分からない。上着の裾を掴み、「行かないで」と呟いた訳になると、もっと不可解だ。醜態を恥じたのではない。取り残されたように思えて、凄く寂しかったし、怖かった。
法廷弁護士の癖に、お前の声ってキーが高いし舌足らずだ。まあこんな街には丁度良いのかも。以前ゴードンに貶されながら褒められた口調は、普段よりも更に寄る辺なく響いた事だろう。ハリーも明らかに絆される。戸惑いながらも、隣へどしっと腰を下ろし、心配そうに顔を覗き込んできた。
「謝らなくていい。最近無理させてるよな」
「いえ、次はこんな事……二度としないとは言えませんが、とにかく頑張ります」
「君は正直だな」
今日の打ち合わせは30分の予定だった。と言うことは、話が始まって数分で意識を失ったのではないか。
逃げるよう頭を抱え、唸り声を上げるヴェラスコの肩へ腕を回し、ハリーは優しく揺すった。そんな甘やかすような真似をされたら……いや、これは赤ん坊を寝かしつける親の仕草だ。羞恥でぎゅっと縮こまっていた頭の芯が急速に緩む。
「冗談抜きで、今週の平均睡眠時間はどれくらいだ」
「4時間……は切っていません」
それが数週間続いているとは、負けたような気がするので口にしない。
法曹界で働いていた時から、短時間睡眠なんて日常茶飯事だった。けれどあの頃は、一晩で処理しなければならないタスクは2件ほど。1つの訴訟に割ける時間は多く、集中して取り組めた。
今では抱えるのは3件、4件、5件。明日必要とされる案件だけでも、リマインダーはずらりと埋まる。
「広報次官の辞令を出そうと思ってるんだが、理事会がうるさいんだ。まだ就任して半年だし、そうでなくても今の理事会は捻れてるしな。まあ、僕が出馬したから、議席が逆転したんだって言われればぐうの音も出ないから」
「市長のせいじゃありませんよ」
思わず顔を跳ね上げれば、相手の顔は予想よりも近い位置にあった。驚きで見開かれた緑色の瞳。喉が渇いている。コーヒーを飲まなければ。テーブルに置いてあるタンブラーへ腕を伸ばせ。
そう意識は指示を出しているのに、気付けばがっしりとした、己のものよりも少し大きい位なハリーの手を、ぐっと握りしめていた。
「僕が居眠りしたことと、議会から民主党員が減ったことに因果関係はありません。選挙の時、僕はあなたに賭けたんです……いや、確信したんですよ。僕が全身全霊で尽くせば、あなたはきっとこの市の政治をより良いものに変えてくれると。頭の硬い老人達が、今までやろうとしなかったことを成し遂げてくれるとね」
滔々と訴えても、汗ばんだ手のひらの中で、ハリーは抵抗を示さない。薄く開くぽてっとした唇で何か言葉を返して欲しいとヴェラスコは望んだ。なのに沈黙が続くものだから、あわいから覗く赤い粘膜をじっと見つめたまま、一層白熱して、調子に乗るしかない。
「僕がこの地位で取る行動が、あなたの批判へ直結することは理解しています。ローファームの後輩だから抜擢されただけで力量不足だと、陰口を叩く人間だっている。馬鹿に何を言われても構わない。でも分かって欲しいんです。僕がする全ては、僕が望んでしていることだ」
こんなにも優秀な息子なのだ。高い壁が目の前に聳え立っていても、知恵を絞り努力を重ねて乗り越えるだろうと、両親は期待した。まさか息子が「困っている人」の側になる事態は、想定していなかった筈だ。
実際、困っていると感じたことなど一度も無いし、大体、困惑したところで何だという話だった。例え自分の皿から取り分けてでも、より空腹な人に食べさせるのが、真実の奉仕だ。奉仕こそが力を有する者の責務だ。
「ヴェラ、ヴェラ、ここでは」
そう叩き込まれたのに。野心は、欲望は、どうしても消えてくれない。
辺りを憚り潜められたハリーの声を後押しするよう、パソコンと格闘していた背後のモーが咳払いする。そこでようやく、ヴェラスコは己の股間に触れさせていた手のひらの存在に気付いた。
「あ、あー……すいません……」
「若いな」
「言って2歳しか違わないでしょう」
掴んで押し付けられていた時も口で嗜める程に嫌がる素振りかは見せない。寧ろ具合を確かめるかのように、数度強く押し付けられた程だった。
「2年前の僕なら、出会い系アプリで会った男を5人位取っ替え引っ替えしてた」
「今とそんなに変わりませんね」
「少なくとも1人は減らしたさ」
こんな無防備に笑うから、勘違いしてしまう。己が強く求められていると。彼から離れてはいけないのだと──もしも彼が次の選挙で落選したら、身の振り方を考えねばならない。まるで街から街へ移動するカーニバルのように、その気になれば幾らでも違う政治家へ雇われるエリオットやゴードンとは違う。ハリーの推薦で市から給金を貰う身となった己は、より慎重に動く必要があるのに。
「まあ、そう言う衝動がある位なら、まだ大丈夫か。うん、健康で何よりだ」
本当に心身共に壮健なら、今頃あんたを執務室に引き摺り込んで思い切りやりまくってる。
未だぎらつく眼差しを宥めるよう、腕を解放されたハリーはそっと早口で耳打ちした。
「後でな。夜なら空いてる」
「おい、後輩だからって甘やかすなよ」
スターバックスへ行ったなら、僕の分も買って来てくれたなら良かったのに。タンブラー片手に部屋へ戻って来たゴードンが大声を張り上げるのへ、ヴェラスコは横目を向けた。勿論、このタフなロビイストに取っては蚊に喰われた程も感じないのだろう。まあまあ、とハリーが双方に向けて手で押し留める。
「今日は定時で上がれるよう、市長権限の非常事態宣言を発動してたんだ」
「そうだね。偶にはゆっくり休んだ方がいい。出来たら明日の図書館の視察の分の資料だけ置いていってくれたら有難いけど」
「殆ど出来上がってるから、すぐに送るよ」
本当はまだ2時間ほど掛かりそうだし、うっかり嫌そうな表情を隠しそびれたが、優しいエリオットは何も言わない。スラックスのポケットからピルケースを取り出し、ぱちんと蓋を開ける。
「疲れてるなら、マイダイス飲む?」
「もう飲んでる」
うんざりと首を振るより早く、ハリーが庇うようにして身を乗り出し、声を張り上げた。
「こいつを悪の道に染めるんじゃない!」
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