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尻尾が汚れる時は春

 とにかく苛立ってしょうがない。これではまるで生理前の女だ──なんて事、冗談でも口にしたらコンプライアンスに引っかかる。それが別に悪い事だとゴードンは思っていなかった。自分自身にそんな例えを当てはめれば、それがどれほど腹立たしい台詞なのかよく分かる。  世の理(ことわり)を捻じ曲げる事は得意だと思っていたが、今回ばかりは正攻法で行くべきなのかも知れない。  が、そもそも正攻法とは何だ? 己の中に確たる前提がないと、物事の白黒を判別する事は出来ない。  大前提としと、ゴードン・ボウは異性愛者だ。  失敗に終わったものの結婚もした。子供が2人いる。これまで身体の関係を持った相手は全員女性だった。今もジムのロッカールームで同性のどんな肉体美を目にしようとも、欲情することは無かった。  それは勿論、仕事の同僚にだって当てはまる。  午前中、新市長が目玉の政策にしているテーマパークの誘致についてエリオットに呼び出された時。デスクについた彼を挟んで、左側に自分、右側にヴェラスコが、デスクトップモニターを覗き込んでいた(市庁舎のWi-Fiは電波が弱く、しょっちゅうリモート会議用のサーバーに入れなくなる)  元来ゴードンは話す事が好きだった。他人と意見を戦わせるのは楽しい。相手の問いかけに的確な答えを与える事が出来た時もまた、えも言われぬ爽快感を覚える。尤も後者は、対戦者が利口である前提だが。  次々と繰り出される上司の難問へ、待ってましたと言わんばかりに頭脳をフル回転。どんどんと意見を打ち返して行くのに比例して、アドレナリンは無尽蔵に分泌される。全く、エリオットはゴードンにとって理想の上司と言えた。結果さえ持って来たら基本的に放任主義。善悪をちゃんと知っているが、いざとなれば躊躇なく踏み越える。無論、頭の出来も申し分がない。  楽しい白熱の戦闘はけれど、ギャッと素っ頓狂な悲鳴に中断された。「なに、どうした?!」耳元で叫ばれたエリオットが、驚いてヴェラスコに向き直る。 「いや、その……」  それまで一端の態度で舌戦に参加していたヴェラスコは、もごもごと口籠もりつつ背後を見下ろす。己の尻を鷲掴んだ手から外された視線は、すぐさま狼藉者へと移った。  あまり光のない、切れ長の大きな瞳は似ていないが、眼差しの湛える色はどこかあの男を思い起こさせる。そもそもむっちりした体付きに既視感を覚えて、つい手を出してしまった訳なのだから、文字通り。 「悪い悪い」  全く悪びれずにそう返したものの、正直頭はまだ議論の興奮を引きずり、よく動いていない。 「良いケツしてんなと思っただけだよ」  真剣にモニターへ食い入る余り、前屈みで腰を突き出すような格好だったから、余計にそう思った。姿勢を正したヴェラスコは、心底気味の悪そうな表情を隠さない。 「君ってそっちに鞍替えしたんだっけ」 「いや」 「僕も違う」  でもあの男とは寝てるんじゃないか、俺と同じで。喉元まで出かかった言葉を飲み込んだのは、「どちらにしてもセクハラはよせよゴーディ」とその場をさっと収めたエリオットが、己の性的指向をオープンにしているからだった。やっと捕まえたウマの合う上司を侮辱するつもりはない。大体今のご時世、南部出身でもない民主党員が、ゲイだヘテロだと色眼鏡を掛けるなんて。  以前、この問題については被害者のヴェラスコ本人と話した事がある。「仕方ないだろう、あの人は魔性なんだから」なんて、弁護士とは思えない抽象的な答えが返って来たので、そのふてぶてしさがいっそ好感を高めた。  秘書のモーは単細胞の元ジャーヘッドだし、軍隊なんてゲイだらけだろうから、抵抗も薄いかも知れないが。そう逃げ道を作ってやったのに「あんたみたいな偏見の塊が市長の下で働いているなんて」と地獄の底に居るような顔で睨まれる。で、多分今の状況に一番困惑しているのはこの男だと把握できた。  そうでなくても慣れない事務仕事に奮闘しているのだ。いつか暴発するかも知れない。勿論、股間以外の部分が。  いや、その内とんでもないことを仕出かすのが己だとしたら? なのでミーティングの後、恥を忍んで敬愛する上司に相談した。日替わりヴィーガンと言うのか、週に3回は肉を抜いている彼とのランチタイム、密談らしく人気のないオフィスにて。テイクアウトのプラスチック容器に詰められた豆腐サラダをつつきながら、エリオットは捲し立てへじっくりと耳を傾けた。 「うん、でもね。正直私は、彼によろめくなら、私を除いてお前が一番可能性が高いと思ってたよ」  話し終わるまで我慢していられず「何でだよ!」と思わず声を裏返らせれば、エリオットは腰掛けていた事務椅子の中で僅かに後ずさった。 「何でって、つまりお前は、ホモソーシャルの空気に一番馴染みがある」 「モーよりも?」 「彼はその辺りアウトサイダーの気があるからなあ。高校時代もバレーボール部とかに入ってたらしいし。ヴェラも典型的な移民3世の、人道主義と新自由主義を行き来してる野心家だから、そのうち転ぶとは思ってたが、予想よりも早かった」  間口の狭い容器から、豆腐を潰さずに食べる技術で、エリオットの右に出るものはいない。オーガニック・レストランの隣にあるバーガーキングで買って来たワッパーを齧りながら、ゴードンは組んだ脚を落ち着きなく揺すっていた。 「バレーボールってちょっとゲイっぽいな」 「そう言う偏見を持たせたなら謝るし、私も最初聞いた時は少し思った」  ゴードンのフレンチフライへ手を伸ばしながら、エリオットはしれっと続けた。 「悩む位なら、無理に寝る必要無いのに」 「それが出来れば、とっくにそうしてる」 「じゃあ素直に勃起すれば良いんだ」  いつでも涼しげで、性の空気なんか欠片も匂わせない目の前の男が、ここぞと言う時に見せる下品さを、ゴードンは嫌っていない。けれど今は、焦燥の燻りを益々強めるばかりだった。  苛立ってしょうがない。ラシュモア山の石で出来ているかの如く固い頭の政治家へ、交渉を仕掛けに行く時すら、もっと前向きな気持ちでいられただろう。  鬱屈が顔に出ている自覚はあった。寧ろわざと出していた。なのにこの能天気な市長殿は、執務室のデスクに脚を乗せてぺらぺら、下らない御諾を抜かしている。 「それは前も説明したし、合意したでしょう。テーマパークなんてもんは、駐車場が広くてなんぼだ」 「だがこれ以上の渋滞は、市民の反感が爆発するし、治安的にも良くない」 「だからハーディングを推してる、幹線道路の目と鼻の先です。南に作って駅を誘致するなんて、正気の沙汰じゃない」 「だが鉄道なら、街の住人も簡単に行ける」  この男は正真正銘の馬鹿じゃなかろうかと、時々ゴードンは本気で思う事がある。市民市民と、どうせこんな、辛うじて大規模都市に括られる市のことなど、知事選への踏み台位にしか考えていない癖に。  益々怒気を高めるゴードンに、けれどハリーは怯まない。むっと唇を尖らせながら、掲げた脚を組み替える。が、それもほんの短い間だけ。ちょっとの思案の後、ジューシーでよく動く舌が(ファックの時、ハリーはキス魔になるから、嫌でも知らしめられていた)苦々しく言葉を紡ぐ。 「君のその頑固な所が好きだよ、ゴーディ。エルは言うだけ言った後、結局すぐに折衷案を持ってくるから」 「俺だって善処はしますよ、勿論。最終的な決定権を握るのはあんたです。だがどうしても穴の空いたボートに乗るって言うなら、俺は止めなきゃいけない」 「全員で溺死したくないから?」 「いざとなったら、俺は1人で泳いで逃げる」 「そう言うと思った」  あはは、と笑いながら項を擦る仕草ではっとなったのは、数日前の慌ただしい行為を思い出したからだ。見えるところは止めろと犬にでもするような物言いをされたから、逆にむくむくと反抗心が湧き上がり、付けた噛み跡。 「君は案外、マーキングが好きだな」  ネクタイを結ばれながら浮かべる、満更でもない表情を、たった今対峙している顔へ重ねるのがやめられない。  つかつかと背後へ回られ、唐突にシャツの襟に掛けた指で引っ張られるという一連の流れに、ハリーは対処し損ねる。がくんとリクライニングの緩い背もたれが大きく傾ぎ、小さく悲鳴が上がった。  あの時はまるで処女の頬のように赤らむばかりだった歯形は、今や鬱血の青みを増している。 「な、何……」 「いや」  とんとんと馬でも撫でるように、痕ごと首筋を叩いてやりながら、ゴードンはしみじみ呟いた。 「つくづく食えない奴だと思っただけですよ」  だから追い回したくなるのかも。  今日一日の中でも初めて、己の苛立ちをポジティブなものだと認めることに成功した。

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