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仕事をしよう!
「デイヴ・マレイは飲尿療法を実践してる」
今彼らが確認しているのは世論調査の結果で、多分これまではもっと穏当な話題、市長が保護猫を引き取ったらその名前は公募にすべきかどうかとか、そう言う話を口にしていたはずだ。
膝の上のマックブックを見ていたゴードンの爆弾発言に、思わず眉を顰めたのはエリオットだけらしい。ヴェラスコは「へえー」と気のない相槌を返し、己のタブレットへ数字を打ち込み続ける。
「多分な。パンフレットを持ってたし、同じ民間療法センターに通ってる人間にも裏を取ったから」
「毎日ジョギング中に東海岸通りの高架下で立ち小便してたのも彼だっけ」
「それは文化局の局長か次長」
ちらと正面に視線を投げれば、デスクで先程からパソコンのエラー音を頻発させていたモーが、凄い顔をしてこちらを凝視している。頷いてやることで無理矢理職務へ追い返し、エリオットはコーヒーテーブルの上のタンブラーへ手を伸ばして──結局引っ込め、己のラップトップのモニターで次々と埋まっていくスプレッドシートを眺めていた。
「今時古いよな」
「と言うか、純粋にキモい……自分の排泄物を飲む?」
「尿素は肌に良いんだろ」
「そんなに言うなら君も試せよゴーディ。あのおっさん、無駄にぎらぎらギトギトしてるのは、そのせいだな」
一通りの入力を終え、ううん、と思い切り背伸びしながら、ヴェラスコは物憂い溜息を溢した。
「何にせよ、おしっこを飲んでる位じゃ弾劾の理由として弱過ぎるんだよなあ」
「多数党院内総務を罷免しようと暗躍してるのか?」
流石に声をかければ、ゴードンは全くの他人事、へっと軽やかに笑った。
「ヴェラのお願いさ。とうとう言い寄られたらしいぜ」
「言い寄られてはない、でも何というか、視線で犯された気分だ……今ここで宣誓するよ、もう2度と、公判で初めて会った速記係の女の子を、いきなりディナーへ誘ったりしない」
「良い心掛けだね……気持ち悪いのは分かるけど、彼はこれから役に立って貰う必要がある。もう少し我慢しろよ」
行動の先走りはともかく、内容の是非についてはまあ、続けさせていいかも知れない。あくまで最優先事項の仕事を片付け、余裕があればの話だが。
勿論ヴェラスコもそれを分かっているから、「はい、パパ」なんて甘ったれた鼻声で答える。
「あくまでも気分転換」
「正直、気分が好転したとは言い難いな」
「しかし、ちょっと掘っただけでこんな情報が漏れてくるなんて、この市の政治家連中はコンプライアンスってものを知らないのかね」
やる気を無くしたとはっきり意思表明する為に、ゴードンは書類の散らばるテーブルへ、どかりと足を乗せた。
「逆に言えば、うちもいつ火の粉が飛んでくるか。頑張れよ、広報担当官」
「取り敢えず市長に『喘ぐのを我慢して下さい』って頼むかな」
「なんだ、僕のことか?」
がちゃりと執務室の扉が開いて、ハリーが顔を出す。彼は基本的にフレンドリーな性格だから、部下が下らない雑談をしていたら混ざりたがる。可哀想だが、これも統率者になった代償だ。君も弁護士時代、同僚と休憩してた時に判事が混ざろうとしたら気詰まりしただろう。そう諭せば余りに寂しそうな顔をしたので、まあ程々にと釘を刺すに留めた自分は、やはり彼を少し甘やかし過ぎている。
「君は弁護士だから、よく通る声をしてるって話さ」
「それは嬉しいね……ところでエル、ちょっと良いか」
手招きに応じて立ち上がれば「静かにな」とゴードンがこれ見よがしに唇を笑みで捻じ曲げる。彼ではないのだから、中指を立てるなんて真似、勿論エリオットはしなかった。
「支持率はどうだ」
「いい感じだね、この勢いに乗って進めよう。次の調査までに、何かまともな議案を通せば皆そのまま誤魔化されてくれるよ」
「上げて落とすのは止せ、傷付くだろう」
ぎしりと事務椅子に身を沈め、ハリーは呻いた。
「こっちは36年ぶりに民主党が輩出した市長なんだぞ」
「その地盤も、結局は過去の積み重ねだろう」
吸っても? と尋ねれば「窓を開けろ」と親指で示される。上着の胸ポケットにしまってある電子煙草を人前で取り出すことは滅多にない。近頃は市庁舎も全面禁煙の憂き目、ここだけが治外法権だった。
かく言うハリーも煙草は吸わない。だがエリオットが燻らせているのを見るのは好きだと言う。
「選挙で君に投票したのは、マレイ達が誘致した中産階級の新興市民だ。ベッドタウンを目指すのは悪くない。彼らの気を惹く政策を打ち出さないと」
「子育て世代への税優遇か、その辺りだな」
「掛け合うならブライズかトーニャに」
「トーニャ。少数党院内総務として点数を稼がせる」
想像力の欠如とまでは言えば誹謗中傷になる。嫌いな訳でもないのだろう。ただ単に、大人へなって以来、子供という存在を意識してこなかっただけなのだ。
この男は本当に、己の人生に何かを残すつもりなど無く生きてきたのだなと、改めて思う。気持ちよくなりたいとか、笑顔で過ごしたいとか、あまつさえ世の中を良くしたいとまで感じている。なのに、その成果が自分の中で貯蓄され、運用する事が出来たり、利子がついたりするなんてことは一切想定していない。
成熟した生物の究極の目的たる繁殖の結果なんて、己にとっては永遠に無縁だと思っているのだろう。良い人を見つけて結婚する気は無いか、夫夫は受けるぞと選挙前に冗談混じりでけしかけた時、浮かべられた迷子のような顔を、エリオットは忘れられないでいた。
同じ子供っぽい表情でも、ぷか、と吐き出された紫煙を手で扇ぎ除けながら浮かべられる顰めっ面は、あざとい位だった。
「その辺りは、こっちが断っても提案してくる奴がいるさ。僕が聞きたいのは、君のことだ」
メンソールが目に沁みたふりをして、思わず眼鏡を掛け直したのは、怪訝さを誤魔化す為だ。
「君、最近パートナーが出来たんだろう」
片眉を吊り上げて続きを促せば、ハリーは益々あの緑色の目を無邪気に輝かせる。
「3日前、君が風呂へ入ってる時に電話を掛けたら、男性が出たよな」
「ああ、ヨルゲンセン? 彼はフラットメイト。選挙が済んで、越してきた時からずっとシェアしてるが」
「その割には、スマートフォンの暗証番号を知ってる位だし……」
「元軍人だから目ざといのさ」
隠す必要はないので聞かれたら答えるし、まだまだ興味津々なのは態度で分かっていた。なのにハリーは肩を竦めて、最も重要な質問を2つ投げかけるに留める。
「寝てないんだな? ハンサム?」
「彼はヘテロセクシャル。ハンサムだね、ノーマン・リーダスとダニール・メドベージェフを足して2で割って、北欧系にした感じ」
紹介しないぞと言えば、分かってると笑って返された。
「最近僕は良い子にしてるだろう」
「しばらくはその調子で頼むよ。ついでにヴェラが送った定例会見の草案メールも返信したら、成績がA+になるんだがな」
「あれは書き直させる。今朝路肩の駐車スペースを巡って傷害事件があっただろう。あの話題を入れたいんだ」
「分かった。酷い世の中だ」
「全く。ところで、さっきはあんなにきゃあきゃあ、何の話してたんだ」
ジュールをポケットに戻し、窓を閉める前に顔一面へ浴びた春の陽気は、誘惑の種にしかならない。程なくハリーも昼飯に出かけるだろう。壁掛け時計をちらりと確認してから、エリオットは薄い微笑みを口元に貼り付けた。
「デイヴについての豆知識。大した話じゃないよ、また今度」
全面修正の通告を受けたヴェラスコが悲鳴を上げ、ランチで食べたタイ料理のナンプラー臭さもそのまま定例会議へ入ろうとするハリーを捕まえフレグランスを振ってやり、その間もゴードンは考えていたらしい。
「これを試してみる」
意気揚々と部屋に押しかけ、デスクへ投げつけるように置かれた機械を見下ろし、エリオットは首を傾げた。
「ベビーモニター?」
「娘が小さい頃使ってた。人の動きで自動的に起動するセンサーがついてる。部屋に入る奴を監視するんだ」
つまりお前は院内総務の留守を狙って執務室に偵察へ行ったんだな──そう言うことにしておく。詳細を尋ねて己まで罪を被らねばならない事態は避けたいので、エリオットは口を噤んでいた。
「しかし、ハリーが許可するかな」
「モーがインカムすら上手く使えなくなったとか、適当に言い訳しておけばいいだろ。それか黙って置いとくか……ここが電源な」
指でスライド式のスイッチをかちかちとさせながら、ゴードンは勝ち誇ったような顔をして見せた。
「見られながらしたくないだろ」
聖域は崩れる。禁煙するかな、と内心嘆息し、エリオットはいつも通り手を振って、「自己判断」の免罪符を投げ与えた。
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