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ウワキにボッキは無し
左手の薬指へ一番に気付いた、少なくとも口に出して指摘したのはハリーだった。
「婚約を?」
「いえ、昔の結婚指輪です」
久しぶりの感覚に違和感を覚えているのはゴードンも同じこと。だがわざと何でもないふりをして、そのまま話を進めようとした。
「警視総監から上がってきてますが、今度の港湾のストの件で動員数は」
「これでいい。配備中の警察官達の食事については臨時雇用者を使うんだろう。就労支援局へ念の為に確認しておいてくれ。復縁したのか?」
「してない、ナンパ避け」
声音がぐっと低まるのに比例し跳ね上がった感情へ間違いなく気付いただろう。ハリーはいとも容易く受け流してみせる。訳知り顔で頷く顔はいっそ憐れみすら湛えていた。
「僕の事は気にせず、遊んできたら良いのに」
手の中のマックブックを投げつける代わりに、「今はそんな気分じゃないんでね」と、努めて淡々と返す事が出来たはずだ。怒りに、しかもやり場のない怒りに時間を浪費している程、暇ではないのだから。
とは言え、ガス抜きは必要だった。執務室を出るや、ヴェラスコが「法廷で偽証してるテッド・バンディみたいな笑顔だけど、大丈夫?」なんて抜かしてきたのに託け、頭をばしんと叩いておいた。
昨日こなした仕事の内1件は「最悪放置していても構わないが、やるならローラー作戦だと無視されがちなので、丹念に拾い上げる必要がある」と言う、ゴードン専売特許の事案だった。昔ハリーがよく通っていた数軒のゲイバーを回り、騒音条例に関する市長の見解を伝えておく。予め本人から聞いてリストアップしておいた「友人」の近況についてさりげなく尋ね「市長はすっかり枯れ果てて、こちらも拍子抜けしてる、お盛んだって聞いたからな。まあ、あれだけ業務に忙殺されてりゃ仕方ないか」なんて、胡散臭そうに見つめてくるバーテンダーへ、いかにも軽薄な物腰でぺらぺら。
「蛇の道は蛇だ、私が行くよ」と腰を上げたエリオットは押し留めた。彼は業務が立て込んでいるし、実のところ、そう言う店へ頻繁に足を運ばないのだと、以前聞いていたからだ。
「ゲイだってミレニアル世代になると、出会いはマッチング・アプリで探すのさ」
こんな中途半端な地方都市は逆にこう言う出会いの場も残ってるものだね。感慨深げに呟くホーボーケン育ちな黒人ゲイの所感について、ゴードンは追求しなかった。薄暗い、いかにも人目を忍ぶような裏通りの地階にある店で、一晩ベッドを温めてくれる相手を探していたハリーの心中も、興味を抱く必要はない。
感傷なんか無用の長物、仕事は勿論、順調に片付けた。
「ハリーに宜しく。熱中したら脇目も振らなくなるその癖、いい加減に治せって言っといてくれ」なんて、親戚のおじさんみたいな口調を引き出し、ジンジャーエールを干した直後だった。まだ未成年と思しきプラチナブロンドのガキが、すっと隣のスツールに腰掛け、飲み物をねだる。2軒目は同い年位の真面目そうなホワイトカラー、次のクラブでは話していた店主その人に口説かれる。
4軒目で炭酸水を飲んだ後に膀胱が限界を迎え、トイレを借りれば、元ダンサーみたいな体型をしたハンサムな黒人が追いかけてきた。しゃぶってやろうかと言われて、己は一体どう返しただろう──分かっている、ゴードン・ボウはクールな男。「気持ちだけ受け取っとくよ」とそつ無く手を振って見せた。
2軒までなら場所が悪いと納得するつもりでいた。だが役満となれば流石に、衝撃を覚えなかったとは言うのが嘘になる。
帰庁したら副市長の主席補佐官を務めるアダムショックが苛々と仕事を片付けていた。自分にも経験があるが、有能な人間は、ストレスが危険な水準まで高まる前に本能的な回避行動を取るものだ。
2人でブラジル風BBQハウスにて遅い夕食を摂り、その足で彼女のコンドミニアムに駆け込む。
「心配しなくても大丈夫、全然ね」
夜明け頃、何も知らない彼女はベッドの中でそう請け合ってくれた。
しかし、それでも。以前と、つまりハリーの相手をする前と、己は何か変わったのだろうか。口髭がフレディ・マーキュリーみたいに見える? 「そう言う奴ら」をジョークの種にしないよう殊更注意し、接する時も丁寧に、さりとて気張らず。
そんなの昔から何も変わらない。市庁舎の4階にある人気のないトイレで鏡を睨みつけながら、ゴードンはシェービングフォームを塗りたくった顎に剃刀を滑らせた。
昨晩は家に帰る予定だったが、山手のトンネル工事現場で落盤事故があったと一報が入り、夜中に現場へ飛んだ。ここに蜻蛉返りした後は、パニックを起こして言い訳ばかり繰り返す業者から事情聴取。自分の推薦した業者を使えば良かったのにとねちねち詰めるマレイから解放されたばかりのエリオットに報告して、取り敢えず意見のすり合わせは終えた。後は30分もしないうちに、負傷者の慰問を終えて病院から戻ってくる市長やヴェラスコに合流して会議、身内向けと議員向けのもの。
背後でドアが開く気配こそしたものの、振り返る事はしない。正直、今一番聞きたくない足音だった。
「慰問、お疲れ様でした」
「君こそ。取り敢えず危篤者がこのまま死なない事を祈るよ……死者が0と1人じゃ大違いだ」
「マレイが酸素吸入機を蹴倒しに行かないよう、モーを監視にやりましょうか」
「彼ならやりかねないな」
伏せた目で薄く笑いながら、ハリーはケースから電動歯ブラシを取り出した。マイノリティ及び女性業者雇用枠は必要な制度だし、そもそもこの男が就任する前から工事は始まっていたのに。
並んで手洗い場を陣取り、振動する機械をものぐさそうに口へ突っ込んでいるハリーから、普段の闊達な物腰は想像出来ない。充血し、焦点の緩んだ緑の瞳が思い出させるもの、オーガズム。束の間の隙に、ゴードンもあてられる。
「市長」
「んー」
「俺は最近、ゲイっぽくなって来ましたかね」
すっと走らされた横目は、やはり茫洋とした色だった。
「いいや」
「今絶対、適当に言ったでしょう」
「本当さ。相変わらず、バーでケヴィン・スペイシーに声を掛けられたら、その場で叩きのめしそうなブルーカラー出身のタフガイに見える」
「何か言われたのか?」と尋ねられ、ここ数年稀に見るモテ期について話したが、「君は元々、ああ言う店で人気がありそうなタイプだから」とさして哀れんでも貰えなかった。
「ケヴィン・スペイシーを叩きのめしそうなタイプが?」
「いや、その髭……冗談だ」
モーターが駆動する鈍い響きに合わせて、こくこくと頷いているのは、眠気に耐えているのではない、もう少し慎重に考えてくれている証拠だ。結局ハリーは歯磨き粉を吐き出した後、幾分侘しげな口調で続きの台詞を紡いだ。
「エルに聞けよ。僕は一度でも寝た相手をあまり客観視出来なくなるタイプなんだ」
顎の辺りの髭へぽつっと飛んだ白い粘液。ぶくぶくとやたら念入りに水を口の中で転がしながら、こちらを見つめて、ぱたっと気怠げに瞬く長い睫毛。
歯軋りしたくなる苛立ちと欲情。アダムショックと体を重ねた時には到底得られなかった、燃えるような感覚だった。
「心配しなくても大丈夫、全然ね」
30分ほど器用な手であれこれしても、まさしく芯のないソーセージよろしく半勃ちで揺れているゴードンのペニスを見て、彼女はそう慰めてくれた。疲れてる時ってそんなもの。私だって全然感じない日は幾らでもある。滅多に見せてくれない優しさと相俟って、死にたくなった──口でしてやれば、15分もしないうちに本物のオーガズムへ浸っていた、最高に魅力的な女性。
ハンカチで水気を拭き取りながら、ハリーは洗面器を砕かんばかりに握りしめるゴードンの左手へ視線を落とした。
「それで、自己主張を?」
「ああ、その通り」
緩めていたネクタイを締め直し、ゴードンは吐き捨てた。疲れマラとはよく言ったものだ。3日で10時間を切っているだろう睡眠は、肉体を強制的に興奮させる。そう、これは不可抗力だった。
「会議が終わったらあんたの身体を借ります。今なら30秒で射精出来ますから」
「ええ……」
こんなに頭が動いていない状態で外に出したくない。あー、うー、と無防備な呻きが拒絶へ繋がらないのは、けれど彼も間違いなく溜まっているからだろう。結局鈍い呂律が吐き出したのは、弁護士の肩書が泣く、全く冴えない憎まれ口だった。
「45分で終わらないと、モーに執務室のドアを蹴破らせるからな」
へへっと、不必要に笑ってしまってから、ゴードンはこの品の無い会話がじわじわ毒のように脳内へ回るのを改めて感じていた。「借りる」だなんて、女のプッシーにすら、そんな言葉を使った事が無かったのに!
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