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思う以上に貴方は愛されている その2

 扉が開き、颯爽と現れた礼装姿のハリーを目にした瞬間、その場にいた誰もが息を呑んだ。  やはりエリオットの見立ては、いつでも完璧だ。純白ではなく、微かに灰色かかった艶のないオフホワイトが、精悍な顔立ちを引き立てる。唯一ラペルのみが象牙色のベルベット。LED照明を受けて、エメラルドの瞳と同じく、きらりと油断も隙もなく輝いていた。ぴったり合った服の中で、肉感的な体が悶えるような身のこなしを作る。  処女は新床で破瓜の痛みに顔を歪める。だが目の前の熟れた体は、間違いなく男を待ち構え、お互いの悦びを確約していた。 「綺麗です、ハリー」  薄く唇を開けて見惚れている花婿のヴェラスコよりも先に、思わずモーは呟いていた。  この中で正気なのは、周囲を幻惑する当人のみだった。 「とっとと済ませよう。そういえば結婚許可証は?」 「昨日僕が2人分記入して申請しました」  態とらしい咳払いをしながら、ヴェラスコはカフスを直す。 「公証人の知人に手を回させて。もうそろそろ届く頃でしょう」 「市長のサインを偽造したのか?!」 「いつも冠婚葬祭のカードのサインは僕が書いてるじゃないですか。心配しなくても、立会人欄のサインはゴーディが」 「君が器用なのは認めるが、その向こうみずさは、いつか厄介事を引き起こすぞ」 「偽装結婚さ。今更書類の不備くらい」  らしくもなく、滲んだ投げやりさを取り繕う真似もしないで、エリオットが手を掲げる。 「早速始めよう。私、イーリング市長付戦略官エリオット・ファーマーが司式として執り行います。立会人ゴードン・ボウ、モデスティ・テート。免許証のコピーは貰ってるから、証明書に署名を」  書類と向き合った際、ゴードンは眉間に皺を寄せて首を捻った。 「俺はどっちの立会人だっけな」 「もういっそ、両方の欄に君の名前を書けよ」  爪先を踏み鳴らし、ハリーはつんとそっぽを向いた。 「結婚許可証を取ってきます」  バネ仕掛けのように、モーは応接机から後ずさる。 「書類を全て揃えないと」 「市長用の郵便受けに放り込んで貰ってる」  ヴェラスコの低められた声は、さながら地を這うかの如しだった。  自らのデスクからポストの鍵を引ったくり、モーはオフィスを飛び出した。  嫌々とは言え、自らはこの任務を引き受けた。途中で放り出すことは許されない。  でも、それでもモーは、己がいない間に、式事が全て完結してくれれば良いのにと、不可能を願っていた。  いつかやるべき事を今やるだけ。これで彼はゴシップから逃れられた。ゲイだから誰彼構わず男を追い回すと言う偏見から逃れ、一人の相手を愛す普通の人間だと思ってもらえる。  普通だって? ハリー・ハーロウはこれまで、数々の常識を打ち破ってきた男だ。歴代最年少で、初のカトリックかつゲイの市長。もう何十年も放置されていた貧民街に重機を入れた。  常道を覆し、反発の声が増えた時こそ、目を見て話をすることの出来る人間が必要とされる。例え耳に痛い言葉であっても、いや、だからこそ、そこに政治的な駆け引きは必要ない。  玄関口のポストに突っ込んである、クラフト紙の封筒を手にした時、モーは腹を括った。  エレベーターを降りるまで、固い固い決心は何があろうとも揺らがないと思っていたのに。オフィスから聞こえてくる騒ぎで歩調は早まり、心臓の鼓動と見事に同調する。  まず最初に見えたのは、床でばたつく白いスラックス履きの脚と、彼の背中へ馬乗りになったゴードンの後姿だった。突っ張る左腕を、袈裟固めの要領で捕らえているのはヴェラスコだ。正面にしゃがみ込んだエリオットがカードを見ながら声を張り上げる。  背後を仰いだゴードンは目を血走らせ、髪を振り乱して叫んだ。 「来たぞ、おいモー、足を押さえろ!」 「今日お越し頂いた証人、そして神の御前にて、神聖なる誓いを交わします。2人はお互いを助け、敬い、命ある限り心を尽くすこと。ヴェラスコ・ヴィラロボス、貴方は」 「誓います! 当選しようとも落選しようとも、彼が僕を雇用し続ける限り、決してハリーを見捨てません!」 「素晴らしい忠誠心だ。ではハロルド・ハーロウ、貴方は病める時も健やかなる時も、悲しみの時も喜びの時も、貧し時も富みし時も、ヴェラスコ・ヴィラロボスへ誓いますか?」 「駄目だ、やはり僕には出来ない! 市民に犠牲を強いるなんて……」 「市長、前に言ってたじゃないですか! 市民に、僕に責任を取ってくれ!」  悲鳴じみたハリーの訴えは、ヴェラスコの金切り声に掻き消される。まるで逃げるかの如く目を逸らしたハリーを見下ろし、ゴードンは狂ったようにけたけたと笑い声を上げた。 「あんたはそう言うところが人間らしいって言うんだ!」 「ハリー、よく聞いて。私達は君に嫌な事をさせる。好きでやってる訳じゃない。君がこれから上り詰める為に必要な事だからだ」  左右に振られる顎を掴み、エリオットは傅くべき市長に言い聞かせる。食い縛られた歯の隙間から漏れる声は、モーが初めて見る、彼の追い詰められた姿だった。 「失望させないでくれ。聖書が白紙なら、私達は一体何を指針に生きる?」  ほんの刹那、全身の力が抜けた瞬間を彼らは見逃さない。ゴードンに手渡された指輪を、ヴェラスコはハリーの左手の薬指に嵌めようとした。  やはりこんなことは間違っている。  気付けばモーは、市長の手を掴んで廊下を一目散に走り抜けていた。 「凄いな、さすが海兵隊だ!」  ハリーの声は賞賛と言うより、驚愕で盛大に裏返った。 「ゴーディ、肩の関節が外れてた気がしたけど、大丈夫かな」 「黙って!」  階段を駆け下り、飛び出した裏口にはモーがリースしている古いフォードが停まっている。 「どこへ?」 「どこへでも、望む所へお連れします」  日曜日の昼前で、市内は比較的空いていると言うのに、何て事だろう。停止線ぎりぎりに突っ込んだモーは、通行止めのバリケード前で怒り心頭の作業員へ、身振りで謝罪した。  幸い、彼は市長の存在へ気付かなかったらしい。不幸なことに、魔の信号は暫く修理が完了しない。そうこうしているうちに、後続車は次々と並ぶ。  じりじり正面を睨むモーと違い、ハリーの眼差しは落ち着き払っていた。 「ともかく助かった、恩人だな……確かに本当は、結婚が一番手っ取り早いと僕も分かってるんだが」  振り向いた時、緑の瞳は予想を裏切り、俯き落とされていた。 「僕の両親は利口でね。お互いや子供達を愛そうと必死に努力したけれど、本当はどちらも一人で生きられる人間なんだ。彼らは今も見るからに幸福な夫婦だ、本人達もそう思ってるし、僕も尊敬してる。けれど、僕は彼らのように無私の精神で家族に尽くすなんて、とても……」  ハリーの視線にちゃんと入るよう、モーは膝の上の手を握ってやった。 「大丈夫です、ハリー。俺もエリオット達も、あなたを支える事が望みなんです……プレッシャーは感じないで下さい。まずはあなたが、何をしたいか口にすればいい。そうすれば俺達は泥も被れるし、跪いて靴だって舐められる」 「靴を舐められるのは嫌だな」  ぎこちなく笑んだ頬へ、モーは壊れ物でも扱うようにそっと触れた。顔を近付けても、ハリーは目を閉じない。それでいい。今この瞬間だけは、彼が望む通りに振る舞って欲しかった。  厳粛な接吻は、サイドガラスを叩く乱暴な音で中断させられる。 「そう言うの良いから! 尊敬と愛情がごっちゃになってるお子様め!」 「市長、怖がらせてすいませんでした! 記録は抹消させます!」  ゴードンとヴェラスコの喚き声を掻き消したのは、スマートフォンを取り出したエリオットからの着信だった。 「ハリー、緊急事態だ。明後日の駅の新設に関する採決だが、雲行きが怪しい。トーニャがアジア系移民に対するCDVID-19政策が不履行な事をちらつかせてる」 「くそっ、忘れてた!」  濃密な空気を呆気なく脱ぎ捨て、ハリーは助手席の扉を蹴るようにして開いた。 「ゴーディ、今すぐ理事全員に探りを入れろ。少しでも言い淀むようなら、僕の家に呼び出せ。ヴェラは共同声明! エルはトーニャの所に」 「いや、彼女には私よりも君から直接誠意を伝えた方がいい。議員についてはこちらでまとめる」  あれよあれよという間に進められる話へ呆然と飲み込まれていく己がすべきことは、取り敢えずこのままハリーをヤンファンの家へ送る事らしい。 「時間がない、超特急で頼む」 「分かりました」  そう、こう言う奮起こそが、本来2人の間には必要なのだ。ハリーは既に渡されたタブレットを猛然とスクロールしている。市庁舎へ駆け戻っていくエリオット達を後目に、モーはアクセルをベタ踏みし、難しいと思っていたUターンをいとも容易く決めてみせた。

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