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思う以上に貴方は愛されている その1
「ところで、どうして君が彼の家の合鍵を持ってるんだ」
エレベーターの中、深く艶めいた黒いタキシードのラペルを引いて身嗜みを整えながら、ヴェラスコは横目を向けた。
「そんなしょっちゅう行ってるのかい」
「ああ、まあ」
こちらは海兵隊時代のブルードレスに身を包んだモーは、真正面のドアから決して目を逸らさなかった。
「一応、公式には送迎役も業務の一つとして盛り込まれているし」
「ふうん。後で返してくれよ」
徹底的に温度のない口調は、「いや、やっぱりいいか」と続けられた時も、全く同じ冷たさを保っている。「秘書がボスの家の鍵を持ってるのは、おかしいことじゃないものな。でもこれから家に来る時は、僕と市長の両方にテキストして欲しい。タイミングの悪い時に踏み込まれたくないんだ」
「分かった」以外に何が言えるだろう。少なくとも背後で控えるゴードンのように、小馬鹿にした風で鼻を鳴らすなんて度胸、モーにはとても無かった。
街の中でも閑静な住宅街に構えられたコンドミニアムは、家賃に相応しくエレベーターも広い。なのにどうして、こんなにも息苦しさを覚えるのだろう。ハリー・ハーロウの部屋は最上階の8階。じりじりと階数表示を凝視している間、モーは首を締め上げている詰襟のホックを外したくて仕方がなかった。
日曜日の朝9時。外は文句のつけようがない初夏の晴れ空。一体何連勤してるんですか、公休とは文字通り公の休日なんですから、登庁して来ないでください。寄ってたかって説得し、無理矢理休ませたハリーが家にいる事は確認済みだった。いざ睡眠を取るとなればかなり寝汚い男なので、きっと今頃まだベッドの中だろう。
文字通り、彼の寝込みを襲う。土壇場まで躊躇していたのはモーと、意外な事にエリオットだった。「寝起きで浮腫んでいたり、臍を曲げて不貞腐れた顔が市のホームページに乗るのは可哀想だからな」
そんなのフォトショップでどうにでもなるとゴードンに押し切られ、決行の2日前に作戦は認可された。
「なあ、こう言う映画なかったか。ダスティン・ホフマンが教会の窓をバンバン叩いて『エレーン!!』って」
「あれはホフマンが式場から花嫁を攫う話だろう。しかもその前に、花嫁の母親と出来てた」
キモい、と吐き捨てるヴェラスコの後ろで、ゴードンはサイモン&ガーファンクルの有名な曲をハミングしている。彼もわざと気楽なふりを装っているのは一目瞭然だった。
幸い、調子外れの旋律は、ぽんと甲高い到着音で中断させられる。
3区画に区切られたフロアのうち、市長の部屋は突き当たりだった。早く戸建てに引っ越すべきだと皆から口うるさく勧められて半年。けれど「独身で恋人もいないのに一軒家なんて無駄だし、夜中に独りで帰宅するのは嫌だ」と、これまたもっともな反論をされてしまえば、それ以上強要することは誰も出来なかった。
でもこれから、ハリーは伴侶を得る。少なくともヴェラスコは近々一緒に暮らし始めるつもりのようで、ここのところ不動産会社のホームページをよく閲覧していた。
ヴェラスコの事を気に入らない訳ではない。寧ろチームの中で花婿を選ぶならば、かなりましな部類だと言えた。
けれど、モーにはどうしても想像できないのだ。この2人が、共に幸せな家庭を築く様子を。庭の芝刈りをしたり、新居のペンキを塗ったり、一緒に帰宅しキッチンに並んで夕食を作る。料理に舌鼓を打ちながら、今日あった面白いことを披露しては笑い合う。
ヴェラスコは元々結婚願望を匂わせていたので、きっとその空間に適応できるだろう。けれど、ハリーは? これまで頑なに独身貴族を貫いて来たのは、恋多き性格だけが原因ではないと、いい加減モーも理解していた。
「ハリー、市長、休日にすいません。緊急事態なんです」
ゴードンがドアをノックしても、中から返事は聞こえてこない。すかさずヴェラスコがスマートフォンを取り出し、着信を入れる。10回ほどのコールの後に、ようやくハリーは応答した。会話の内容はゴードンの訴えの焼き直し。漏れ聞こえてくる声は、心なしか弾んでいた。
「悪い、今起きたばかりで」
扉を開く勢いも全く無防備なら、恐らく下着の上に羽織ったバスローブという格好もすっかり油断しきっていた。まだ目やにすら付いていそうな瞼が、きょとんと瞬く前に、「今だ!」とゴードンが鬨の声を上げる。彼と、続いてモー、最終的に両脇を抱えられて引きずり出された身体の背後に回ったヴェラスコが扉の鍵を閉め、退路を断つ。
「おい、ちょっと君達、一体何だって言うんだ!」
「おはようございます市長。いい天気ですね、絶好の結婚日和ですよ」
ばたばた暴れ過ぎて途中で宙に浮いたり、かと思えば思い切り踵で踏ん張って絨毯に線を刻んだり、ハリーはめい一杯抵抗する。振り回されようとする腕へ一層己の腕を絡め、ゴードンはしゃあしゃあと言ってのけた。
「結婚?! ちょっと待て、そんなのまだ」
「そんなこと言って、引き伸ばし作戦で有耶無耶にするつもりでしょう。婚約期間が長いカップルは、破局率が平均的な婚約期間のカップルの6倍も高いんですよ」
「準備は全て整っています」
捩られる肩から身を乗り出すようにして、ヴェラスコも畳みかけた。
「書類は手配しました。エルが司式者を務めます……何も気張らなくて大丈夫ですよ、今日は書類にサインをして、指輪を交換するだけですから。披露宴は大々的にやりましょう、あなた好みの方法で」
「でもまだ心の準備が……」
「一度やった俺が保証しますよ、こんなのコロナのワクチンを打つよりあっけないもんです」
「モー、何とかしてくれ!」
もがくせいでバスローブの合わせ目から剥き出しになった肩口が、糊の利いた制服に強く押しつけられる。潤んだ緑色の瞳を見下ろしたとき、モーは思わず息を詰めた。手のひらの中で弾む肉体がずしんと重みを増す。
困ったら連絡してくれ、例えどんな時でも駆けつける。彼にそう言ってのけたのは間違いない、己自身だ。あの時ハリーは、100パーセントこちらを信頼している顔で頷いてくれた。その期待に、今こそ応えるべき時ではないか。
けれど、ぐいぐいと体を引っ立てエレベーターに押し込むゴードンへ躊躇はなく、マンションの外で自家用車のボルボを待機させているエリオットの瞳と言えば、現れた男達から片時も逸らされることがない。
「あまり喧しくしなかっただろうね。日曜日の朝から騒動は迷惑だし、皆に気付かれてしまうよ」
「君が謀ったんだな、エル!」
歯を剥き出して怒りを露わにするハリーなどお構いなし。助手席でシートベルトを締める前に、ゴードンがぐるりと辺りを見回して、報道陣の有無を確認する。経験のあるハリーは、ぎくりと身を縮め、隣に腰掛けるモーの膝へ手で触れた。当たり前だが性的な含みは無く、幼子が縋るものを求めて腕を伸ばしてきたかのようだった。
彼を安心させようと握り返したのだが、拘束を強める為と勘違いされたかも知れない。手のひらの中で感じる、指のくねりが悲しかった。
車が走り出せば、もう完全に抜き差しならない場所へいると認めざるを得なかったのだろう。ヘッドレストに後頭部をぶつけ、ハリーは今にも消えてしまいそうな声で呟いた。
「恨むぞ、君達……こんなの、予告なく電気椅子へ引きずられて行く死刑囚にでもなった気分だ」
「この州ってまだ死刑ありましたっけ」
「黙れよゴーディ。ああ、何という事だ……ヴェラ、君を巻き込む事になって本当に……くそっ、君も共犯だった」
「それは言わない約束ですよ」
市長を挟んで反対側に陣取るヴェラスコの物腰もまた、幸せな花婿と呼ぶには程遠いものだった。窓に頬杖をついたまま、悲観的な人間が偽り放つには、限界値と言える穏やかな声で、そう諭す。
「もう観念しましょう、市長。せめて僕達、最高に幸せになりましょうね」
こんな時に限って魔の信号も機嫌が良く、すいすいと市庁舎へ辿り着く。裏口から入り、市長オフィスへ連れ込みざま、エリオットはハリーに衣装カバーへ入ったタキシードと、真新しいオペラパンプスを渡した。ゴードンが奔走してスーツの寸法を聞き出し、ハリーが以前から着てみたいと言っていたヴェルサーチを、全員がポケットマネーをはたいて購入した。
「ぐずぐずしたって式の開始時間が遅れるだけですよ」
「分かってる、君達ずっと見てるつもりか、いやらしい!」
ぽんと尻を叩いて促したゴードンの手は乱暴にはたき落とされる。足音も高く執務室に入るや、ドアを叩き閉めたハリーを見送り、エリオットが思わず言った。「この場にいる全員、彼の裸を見たことがあるのだけどね」
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