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破壊は再生の為にある
明らかにネガティブな反応も混ざっている群衆のざわめきなどものともしない。ヘルメットを被ったマレイは錆びたフェンスの向こうから出たり入ったり、意気揚々と業者に指示を飛ばす。醒めた視線を送っていたヤンファンが、傍らに佇むハリーへ吐き捨てた。
「彼が主役みたいになってるけど」
「むしろ好都合さ。地元住民の間では英雄、それ以外の活動家からはネオ・リベラリストとして目の敵。彼の顔を立てながら、同時に生贄の山羊にも出来る」
彼の口調がどこか上滑りするような色を保っているのは、上を向いているからだ。同じ場所を眺めながら、ヴェラスコも携えていたタブレットをぎゅっと胸に抱き竦めた。
古びて今にも崩れそうな霊廟を思わせる共同住宅へ、モンケンはじりじりと迫りつつある。ダイナマイトを使うと言い出さなかっただけマシと言えるだろう。クレーン車に吊るされた鉄球は視覚的にもインパクトがあった。「トリファー区再生プロジェクト」の第一弾は、派手好きなマレイらしい、盛大なお祭り騒ぎで始まる。
州が定める最低限の告知期日から、念の為1ヶ月の猶予を与えてある──それでも最後の麻薬中毒患者を放り出せたのは昨晩らしいが。兎にも角にも、今やゴーストタウンには猫の子1匹見当たらない。
人権団体のシュプレヒコールが聞こえてくる方角を、ヴェラスコは敢えて見て見ぬふりしていた。もしも両親がデモ隊に混ざっていたらと、考えただけで背筋をざわざわと悪寒が走り抜ける。
何も問題はない。居住者にはモーテルを始めとした宿泊施設に仮住まいを用意した。しかも費用はHUDの補助金から賄われているので、市の懐も痛まない。建てられる5軒で一組のタウンハウスのうち、半分はバリアフリー対応だから、高齢者や体の不自由な住民の不便もぐっと減るだろう。専従のソーシャルワーカーは既に、不満たらたらの住民達を回って関係を構築し始めている。
全く、どうして不満を抱く? これから状況は良くなるばかりだと言うのに。別に競争社会の勝ち組側にいる人間として考えなくても、今回の再開発は悪くない。
4階建ての集合住宅と遜色ない高さまで伸びたクレーンは、今から更に高みを目指し、薄く垂れ込めた雲を突き破る勢いだった。日差しに背を向けた反面は、本来のオレンジと全く違う色へ塗られているように見える。ぶら下がる太い鎖から錘となれば、影に飲み込まれ、さながら『トランスフォーマー』の悪役が装着したパーツを思わせた。
「君は、デモに参加しないんだね」
「そんな事して何になる?」
ハリーが儀礼的にそう問い掛けても、ヤンファンはシビアな態度を崩さない。
「けど私の地元でこれをやるつもりなら、民主党を辞める」
「しないよ。それこそ、する意味がない」
「それってつまり、うちの地区なんかどうでも良いってことじゃない」
ハリーは頭を掻き、再び首が痛くなりそうなほど真剣に天を仰ぐ。美しい緑の瞳は精彩を欠いていた。報道陣向けのスピーチを読む時辛うじて取り繕われていた溌剌さはとっくにアスファルトのひび割れへと流れて吸い込まれた──この地面もきっとマレイの手に寄って改修される。安物の、雨が降れば余り体へ良くなさそうな匂いを放つ平坦な舗装と、穴ぼこだらけのこれまでと変わり映えしない懐かしの風景、住民が本当に望むものはどちらだろう──必要としているものではなく。
当たり前だが、世の中には理詰めで導き出した解がてんで通用しない例も多々ある。
アームが動き出せば、取り囲む市民の中には息を呑むものもあり、非難の呻きをより大きくするものもあり。丸い錘が煤けたコンクリートに衝突した瞬間の音自体は、想像していたよりも大したものではない。ただ、目に見えない衝撃波じみたものが地面3インチ下を走り、身体を突き上げる。
たったの一撃で建物の壁は粉砕され、巨大な穴が空いた。がらがらと崩壊の音が粉塵の中から響く。殊更他人事じみた音程で、ハリーがマスクの下小さく咳をした。
「ここの住人は新しい家に住み、新しい電車に乗って仕事へ出かけ、休日は新しい遊園地で遊ぶ。これまで誰もが、お古で我慢しろと彼らへ言い続けてきたのに」
「その弁明、私にするんじゃなくて、議会用に取っておいたら」
来週の議会も定例記者会見も荒れる事だろう、それなりに。所詮は他人事だ、どいつもこいつも今まで見ないふりをしてきた癖に、今更ケチなど付けさせるものか。
発言するのが例え己の両親だったとしても──先週の週末、実家へ帰った時、父が渋面を浮かべながら読んでいた新聞の第2面には、ハリーと古い共同住宅の写真が並べて掲載されていた。
「ギルの会見は午後の4時からだな」
「ええ。彼は元々副市長寄りですが、今回ばかりは爪を引っ込めさせましたよ」
こちらも昨日突貫で話をまとめた市の報道官を思い出し、ヴェラスコは思わず顔を顰めた。
想定問答は粗方完成しているから、エリオットと打ち合わせをしておかねばならない。己は精鋭のチームで戦っている、一人ではない。しかも、あくまで裏方の一人として。
広報担当官として矢面に立たされると言っても、たかが知れている。基本的に、ハンマーで打たれるのは杭の頭だ。
これが市長の夫となればどうなるだろう。少なくとも、今より遥かに近い位置で彼が受ける衝撃を知る事になるのではないか。
仮初の関係とは言え、ハリーと己は伴侶になり、誓いの言葉を交わす。傍らの男は社会的道義として必要とされる最低限しか話題に触れようとしないし、ヴェラスコも同じ態度を貫いているので、時々忘れそうになるが。
結婚と聞いてヴェラスコが一番に思い浮かべるのは、『ゴッドファーザー』で主人公が逃亡先のシチリアにて美しい娘を見初め、式を挙げるシーンだった。純白の晴れ着に身を包む汚れなき花嫁。蝋燭が揺らめく小ぢんまりした寝室で、花嫁がドレスを脱ぎ落とし、無垢な肉体を露わにする。
これまで彼と散々ファックしておいて処女もクソもないし、初夜にハリーが恥じらう姿など想像もつかないが──いや、彼の事だから、意外と厳粛な顔をしたりするのかも。
正式な披露宴はこの街で挙げるとして、新婚旅行は海の近くが良いと思う。市営海水浴場のように、ボランティアがレッドブルの空き缶や使用済みコンドームを拾う必要のない、澄んだ水面のほとり。森の奥深くにある隠れリゾート的な場所だ。となると、やはりアジアだろうか。
ハリーはハネムーンなんて時間が無いと投げやりだが、1週間ほど休暇を取って、のんびり過ごしたい。日頃の疲労を癒す為、ただただ寝て食べてまた寝て(勿論「寝る」の中には性交も含まれる)そんな生活を送る。
ああ、それもいいな。Wi-Fiも電波も届かない場所で、スピーチ原稿や雑務の督促に怯える必要もない生活。有給も組み込んで少し長めの休みを取ろうか。
市長のBMWの後部ドアを開けてやり(2代前の市長から、公用車の支給を辞退するのが、イーリングの慣例となっていた)己も運転席に滑り込もうとした時、ヤンファンが隣へ腰掛けたハリーに言った。
「選挙の時のあなたの公約って『前市長は守りに入って諦めた。私は攻めの戦法で街を変える』だったよね」
「ああ」
「これがその戦法?」
「皮肉は建設的じゃないぞ」
「皮肉じゃない」
言葉通り、ヤンファンは真剣な表情を崩さず、ハリーにもそうある事を強いる。
「あなたがこの街を良くしたいと思ってる事は知ってる。革新的なやり方は反発を買うのは当たり前だし、人が理解するまで時間が掛かることって、政治には多過ぎる。でも、これは本当に、あなたが望むことなのかと思って」
ハリーは微笑んだ。彼の笑顔はいつでも呑気極まりなくて、毒気を抜かれると周囲は言う。でもヴェラスコには、しばしばその表情か、指2本で口角を強く押し上げたようにしか見えない時があった。
「何事も、一足飛びには進めない。それがこの半年で僕の学んだことだ。今は、ゴールに至る道のりの途上にいるんだよ」
「ならいいけど」
幸い、ヤンファンはそれ以上追求することなく、窓の外を見遣った。車はチャイナタウンに入り、後20分ほどで市庁舎に到着する。
市長は今、間違いなく怯んだと、ヴェラスコは確信を持って答えるとが出来た。こんな時、守ってやるの誰だ? ヴェラスコ・ヴィラロボス、若き理想的な理想家肌の弁護士、やり手の広報担当官だ。
ヤンファンがいるおかげで、もっと早く言っておくべきことが口に出来ないのはとてももどかしい。
彼を愛している。彼を救うヒーローは自らを置いて他にない。ハンドルを操りながら、ヴェラスコは込み上げる昂ぶりで泣き出しそうになるのを必死に堪えた。
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